今年も梅干しの準備をする。

◎6月4日
・南高梅
 2L:2kg
 小梅:1kg
・塩:370g(仕上がり塩分濃度11%)

◇手順
1.梅のヘタを取る

爪楊枝でヘタを取る。あわせてふきんで表面を軽く拭い、ゴミやホコリを拭う。傷が付いた梅や柔らかくなりすぎた梅は取り除く。

2.ござの上に並べて軽く日に当てる
風を当てる程度なので、数時間で十分。長いこと置いておくと、ヘタを取るときに触れた場所やホコリを取るために拭ったところを中心に梅の表面がくすんでくるので注意。熟した梅であれば、すぐに黒くなるのでもっと注意。

3.梅を日に当てている間に漬け物容器などの準備
漬け物桶や焼酎をくぐらせるどんぶり、菜箸などを焼酎で消毒したあと、消毒用アルコールで滅菌する。

4.塩漬け
ビニール手袋を着用。風に当てた梅を焼酎にくぐらせて消毒する。梅の表面が濡れたまま塩の上を転がして、ヘタの部分に塩をすり込む。ヘタの部分以外に塩が付いていなくもOK。そのまま漬け物桶に並べていく。今回は小梅も一緒に漬けるので、大きな梅の隙間に小梅が入るように適当に並べていく。余った塩は並べ終わった梅の最上段に敷く。塩が焼酎を吸うのはあまり気にしない。小梅も面倒だが一つ一つヘタに塩をすり込む。ここをごまかすとカビが出る。18%程度で漬ける場合は自由な感じでOK。

5.重しを乗せる
2/3程度の重し(今回は2kg)を乗せる。

今年の味噌は、2月に入ってから材料を集めたこともあり、黒大豆が600gしか買えませんでした。
なので、普通の大豆を400g加えて1000gにしました。
(ここはkg表記でも良いのですが、何となくg表記気分だったので。)
米麹は2000gです。
塩分濃度は11%にします。
豆1麹2の京風味噌です。でも黒豆を使っているので普通の茶色の味噌ができあがります。
塩の量は茹で上がった豆の量を量ってから決めます。
手袋は茹で上がった大豆を触るところから使うと良いです。

2016年の味噌づくり
1:木曜日 夜
◎吸水
大豆を水に浸して吸水させます。
夜、寝る前に水洗いして、吸水開始。

7月25日の二種電気工事士の試験での失態と次のための教訓とか、反省とか。
本日の教訓:問題文をよく読みましょう。もっと良くできるようになります。
そうそう、かつてマニュアルライターだった時代、先輩から聞いた笑い話で、買ったばかりの製品が動かない、どうしてくれるんだというクレームのだいたい2割がコンセントにつながっていなかったというものがあった。
この2割という数字は言い得て妙で、買ったばかりの電化製品が動かないからお店に言いつけるとか、引っ越し先で使おうと思ったら動かないから運送会社をとっちめるとかいう人をなだめて落ち着かせてコンセントに繋げばきっとやる気を出してくれるよと言い伝えると、果たしてその通りであったりするのだ。
まあ、前置きが長くなりましたがそういうことです。
端子台の接続に迷ったら、知らない知識を総動員する前に問題文を読みましょう。
考えるまでもなく、読むだけで即解決です。
筆記はともかく、実技なんて落とすための試験じゃないのに。もうがっかりです。
このがっかり感を抱えたまま一年を過ごすのかと思うと、果てしなく残念でありません。

まあいいや。
ついでなので、もう少し現実的な反省をいくつか。
・1.6mm単線は地味に重く堅い
 面倒と思わずに軍手を使う方がケーブルの曲げとかは楽。
・練習問題は体力と相談してやる
 練習問題を最初の1日で5つやっつけたら、握力が情けないことに。
・GNDとか使わないし、黒でアースをとらない
 GNDなんてどこにも出てきません。しかも接地線は白。黒は非接地線(活線)

斜め前に電工ナイフ一本で作る人がいた。
時間内でできていた。
尊敬した。

そもそもの始まりは差動方式のパワーアンプを作ったこと。
それで、終段の差動にあわせて入力を差動にしたら、プリアンプの出力も差動にしたくなって、巡り巡ってDACの出力が差動になった。
差動の方が音がいい(?)とか、伝送時のノイズに強いからとか、いえばいえないこともないが、本当の理由はもっと単純なことでした。
そんなわけで、DACの出力がバランスになった理由を人に伝えようとしたところでうまく伝わるはずもないしと諦めているので(そもそもDACを作るとか、意味不明だしね)、単にDACの出力はバランスです、みたいなことを言っているのですが、そうするとたまに「そうそう、DACの出力は差動だからそのまま出力すればOKだしね!」なんてことを言う人に出会う。中途半端な知識がいちばんやばいという典型。もっとも『いやいや、それ違うから』と正すのもめんどくさくて「そうだよね」と言ってしまう自分もいたりして、言ってしまった自分の中途半端さを痛烈に反省。
なので深夜の弁明。
DACの差動出力をそのままプリアンプに繋ぐとコモンモードノイズがダダ漏れなんですよ。なので、DACからの差動出力はちゃんと合成して使います。
私が試している方法は2つ。DACを通常の倍使う方法とトランスを使う方法。
DACを倍使う方法としては、電流出力のDACをパラレルで使って電流を稼ぐことで音質向上を狙うのが一般的ですが、この方法で電流を稼ぐ代わりに差動出力を取ります。また差動合成した出力をオペアンプで差動に変えるという方法もありますが、トランスの方が簡単だったので今はトランスです。電源とかいらないのが一番。
なので、DACからの出力はコモンモードノイズを除去してから使いましょう。データシートにも推奨されていますしね。

小学4年の算数の問題がやや手強い。
Xを使った方程式を使う方法もあるが、ここは算数の手順でやってみよう。
1.jpg
 
つまり、補助線を使った方法ですね。
 
答え合わせは、続きで。

「一度言えばわかることを繰り返し言わない」

今回の一連の報道を通して思い出したことがある。「はい」は一度だけでしょ、という言葉だ。繰り返し言われたこの言葉は誰もが聞き覚えのある、現在進行形で言われている方には毎度おなじみの言葉だ。一度言えばわかることは繰り返す必要がないし、繰り返すことは嫌みになる。

それで今回の報道だが、この事件に割いている時間の割に中身がない。語られることと言えば「情報を整理」「これまでの流れを」という言葉ばかりで、夜のニュースでも朝のニュースと同じことを伝え、翌日の朝のニュースでさえ先日の朝のニュースと同じことを繰り返す。そして夜のニュースでも同じ内容が・・・。

正直どうなんだろうかと思う。そんなに繰り返さなくてはならないほど今回の事件は周知度が低いままなのだろうか。あるいは自分たちのニュース番組の視聴率の低さを放送回数で補おうとしているのだろうか。既に伝えた情報は伝わったものとして新たに得られた情報だけを伝えるということではだめなのか。続報の主たる役割は「それからどうなったか」であって「それまでどうであったか」を繰り返すことではないはずだ。それをしない、許さない理由がどこかにあって、たとえば旧世代の悪しき伝統みたいな勢力が、ニュースの重要性とはそれを伝える時間の長さで決まる的な前例主義を押しつけているように見えてならない。現在進行していることについていえば差分だけ伝えてくれれば十分なのに、そこのことを考えようとするひとが少なすぎる。それとも私が偏屈なのか。他の誰もがオレンジ色の服を繰り返し見たいと思っているのだろうか。何のために? 罰ゲーム?

補足すれば、記者の質問も「今何をしていますか」「次はどうしますか」的なことばかりが目立ち、当該地の情勢などを踏まえた上での質問がほとんどない。いや失礼。全くない。質問の多くが気の抜けた雰囲気に満ちあふれている。聞くべきことがないから聞いているという印象は否めない。たまに意気込んだ質問があるかと思えば政府への批判で、対応の遅れとか、もっとできることがあるはずだとかいう非難がほとんどで建設的な話題に向かっていかない。ひどいところだと「身代金は払うのですか」という質問さえあった。「身代金以外のどんな解決策を考えていますか」じゃないのか? やはり罰ゲームだ。

ではどうするのか。答えは単純明快である。時間を費やしたいのであれば、こんな時だからこそ政府を褒めればよい。イスラム国が一番いやがることをやらないでどうするのだ。政府に恩を押し売りイスラム国に嫌がらせをするのだ。褒めた政府は事後の検証番組でこき下ろせばよい。掲げたはしごは下ろせばいい。本当のことをいえば、何もしない方がいいとも思う。実際、この案件について政府はできることをしていると思う。それどころかマスコミの期待に応え、できないことまでやろうとしている気配さえある。一方、マスコミにできることは少ない。失礼、日本のマスコミにできることはない。だから何もしない方がいい。政府にできることが多くないように、報道機関にも伝えることなど多くないのだ。正確に言えば、政府が表立ってできることは少なく、報道機関もまた聞くべきことは少ない。直接関係のない国民は、外向きには「あー、なんかやっていますね、それがなにか」くらいの無関心を装えば良い。

そんな妄想はさておき、現実の7時のニュースは何の進展もなかったことを伝えるためだけに持てる時間の多くを費やしている。これはまるでイスラム国によるニュースジャックだ。イスラム国の報道機関の日本支部といってもいいくらいの大判振る舞いだ。おそらくだが、マスコミ自身がテロに対峙した時になすべき姿勢や態度について考えていなかったのだと思う。それゆえニュースとしての重要性を伝えるために時間を費やすことこそ報道の使命と考える誰かを止めることができず、尺を埋めるためのベタな質問を誰も止められず、記者は変だなと思いつつもバカ正直にベタな質問を繰り返すこと以外できず、そのやりとりをキャスターも同じことばかり言っている気がすると考えつつぼんやりと立ち、何となくニュースが流れていく。どこか懐かしい景色があるね。昭和20年頃のあのあたりみたい。テロとの戦いでもまた日本の報道は負けるのか。せめて政府だけは勝って欲しいのだが、これを好機と妙な一歩を踏み出そうとしている雰囲気もあってきな臭い。このあたりも懐かしい光景が見えてくる

と、また妄想に沈んでしまった。いかんいかん。

とにかく、このムダな感じをどうにかして欲しいのだ。気象庁に習って報道番組も「50年に一度の記録的な災害」みたいな分類をニュースに導入したらどうだろう。重要度の高いニュースには「50年に一度の記録的なニュース」というテロップでも流せばいいと思う。そうすれば重要度をテロップで伝えることができ、ニュースは純然たる続報に徹底できる。ついでに、一つのニュースに費やす時間を決めておくというのも良い。1ニュース5分で冒頭の15分はトップニュース。残りは政治・経済・社会で分け合って、最後に3面記事的な話題と天気予報とかどうだ。

余談はともあれ、テロの非道さを伝えることはテロが無視できない脅威であることを伝えてしまうことを否定できないし、政府の行動を無策と非難することはテロと交渉せよという間違ったメッセージを人々に送ってしまいかねない。いわばパレード効率的な状態であることを自覚しなくてはいけないのだが、さすがというか、ここでと問うべきか、時流にめざとい議員が早速政争のネタとして使い始めている。テロ対策は不十分でも、与(野)党対策、派閥対策は万全らしい。劣化国家と嘆くべきなのか。

オーディオは、作るコトが楽しいのであって音の善し悪しは後からのんびり考えましょう、というスタンス。あと、何かを考える時は、「こうすればああなる/あれがないからこうなった」といった仮説があるといいねという信条もある。仮説なき試行錯誤も暇つぶしには面白いが、結果的に泥沼になることが多い。

そして本題。「ベタGND vs 一点GND 音質比較用プリント基板セット」についてのいくつかの試行錯誤について。
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「音の善し悪し」に欠かせない「聞き比べ」だが、これこそ仮説なき試行錯誤だと思う。そもそも「善し悪し」とは何か? である。客観的判断を装いつつ完全に主観。「私にとってどうであるか」の考察。ついでにいえば私は音の「微妙な」違いに優劣をつけることができない。極端なことを言えば、ノイズもある程度まで消し込めればその先は好き嫌いでいいんじゃないかと思ってしまう。記憶の力を信じてないところがあるのかも。
たとえば潜水艦はそれぞれ特有の音を出していて、その音を頼りに個別識別するという話がある。この手の音はノイズである一方で機械が機械として正常に動いていることを確かめる手がかりにもなっている。ノイズの発生を擁護するつもりは全くないが、不快に感じる領域を越えた「違い」は好き嫌いでいいような気がする。
ないものを評価することは難しいので、あるものを認めようというスタンス。3歩進んで2歩下がるくらいな感じで十分。

さて、前口上が長くなったがこの基盤について説明する。作者曰く、ベストは1点GNDと思うがついでにベタGNDも作ってみたんで聞き比べとかどう? というあれである。なお、オペアンプはMUSE8801(@180円)を使用。
結果から言えば、私にはどっちもどっちだった。
1点GNDもベタGNDもそれぞれ悪くないと思う。アナログ時計とデジタル時計の違いについて語れと言われているみたいで、どっちかを選ぶのは難しいかなって感じ。違いを知った上で、好き嫌いで選んでいいと思う。むしろ、音源→DAC→プリアンプ→メインアンプというシステムにおけるGND問題を思い出してしまう。

んで、ちょっと気になったことをついで試みる。GND配置とは関係ないんだけど。
したいこととは、使う部品の質を変えること。質といっても基準が曖昧なので、とりあえず金額で高いやつと安いやつでの比較。
キットの作者が良いという1点GNDにお高いパーツを組み、お安いパーツでベタGNDを作る。

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以下部品リスト
【お安いパーツ】
ユニット:MUSE8801(秋月@180円)
抵抗:チップ抵抗5%品(千石10個50円)
コンデンサ:チップセラコン22uF/50V(秋月20個200円)
120uF→100uF/16Vに変更:(秋月@10円)
220pF:円盤型セラミックコンデンサ(千石10個50円)
ダイオード:小電力ショットキバリアダイオード(秋月10個150円)
トランジスタ:2SC2712/2SA1162(秋月40個200円)
VR、ジャックを含めた部品代合計 約1000円

【お高いパーツ】
ユニット:MUSE8801(秋月@180円)
抵抗:DALE RN55D(千石@50円)
コンデンサ:薄膜高分子積層コンデンサ22uF/16:(秋月@200円)
120uF→OS-CON/高分子アルミ電解 220uF×4、470uF×2(手持ち品)
220pF:東信工業ポリプロピレンフィルムコンデンサ(千石@40円?)
ダイオード:小電力ショットキバリアダイオード(秋月10個150円)
トランジスタ:2SC2712/2SA1162(秋月40個200円)
VR、ジャックを含めた部品代合計 約3000円

【お安いパーツ】版は悪くないと思う。B級グルメ的な雰囲気がある。キッチュな感じ。しかも電解コンも小さいやつなので、全体に薄くできている。ポーダブル機などはこんな構成でもいいんじゃなかろうかと思った。薄さとコストと音のトータルバランス。
一方、【お高いパーツ】版も悪くないが、【お安いパーツ】版のB級グルメ的雰囲気と比べるとそつがなくてどこかつまらない印象。値段で3倍も違うのに(笑)。ただ、この手のオペアンプ一発で組む場合、お高いパーツを注ぎ込むにも限度があるのも一つの見解。それならば、むしろどれだけお安く組むかという方向性のほうが「手作り」派としては面白いと思ったのでした。放出品の中に円盤形のセラコンを見つけたときの達成感とかね。


【反省】
振り返って思うに、1点GNDに対して恣意的に厳しい評価をしているような感じがあり、その理由を考えた。おそらくは自分の現状では1点GNDでの基板設計をするだけの知識がないことと無関係ではないと思う。
知識がないからGNDの違いが聴感にどのような影響を与えるかわからず仮説の立てようがない。仮説がないから、そもそも聞き比べが成立しない。

しかしこの基板どうすんだ。同じものばかり4つも。

MacのiTunesをiPodから操作できるRemote。
Time Capsuleの運用状況をMacから確認できるAirMacユーティリティ。
これらネットワークを介してPCを制御するソフトを利用する場合の注意点。
それはファイヤーウォールで制御の例外ソフトに指定すること。
そして、我が家での失敗事例。
Macの「システム環境設定」でファイヤーウォールの例外指定はしたが、ウイルスソフトでのファイヤーウォールの例外指定をしていなかったこと。
分かってしまえば何でもないが、もちっと早く気がついても良さそうなものだった。
やはりRemoteは便利。
そして、複数あるMacのバックアップを一台のTime Capsuleでまかなえるのも便利。
ちなみに、買ったのはAppleの整備品で、acのない。データの転送速度は有線LANの半分とか2/3ほど。時間でいえば、大きなデータを扱うわけではないので20秒が30秒になる感じ。画像とか扱う人にとっては論外だろうが、それ以外の人は無線でいいんじゃないかと思った。
問題があるとすれば、セキュリティかしら。まだ、周囲には見えるようにしている人が多いから、とりあえずは見えないようにしておくだけで大丈夫じゃないかしら。あと、暗号もセットしておけば一安心。半年に一回程度、念のためPWを変えておくくらいかな。

74HC123は75HC001の夢をみるか

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甲府から中央道の先にある五湖。
二つ目までが場所、残りは当日の受付順で割り振られる。
よい子、悪い子、普通の子の区別なく、きっぱりと受付順。
ロジックとしては普通に74HC123からトライして、
ICが混雑してくると繰り上がれる余地がある。それが75HCxxx。
別の筋によると他に91HC123もあるらしい。
カタログ未掲載の品名だから、メーカー保守品かもしれないけど。
そして甲府とセットでスージー・ユーニクがやってくるんですと。
ロシアていうか東欧ですよ。FstNameは西欧っぽいけど。
やっぱり名前なのかな?
紹介した相方が誰なのかが気がかりなんだよね。
なんのこっちゃだ。あはは。

金曜日の7時頃に書店の漫画コーナーに立つと、どこか妙な感じ。というのもその場に立つ大人と呼ばれても不思議はないだろう年代の方々が多いからだろう。中高生が右往左往する場所という印象は今や昔、このところの漫画コーナーの大人比率にはちょっとびっくりです。
そんなこんなでこのところの漫画事情ですが、ライトノベルの漫画化はもとより、大人比率の高さに気を良くして、あるいは大人に気を遣っているのが、小説の漫画化とかも結構あったりして、絵がかければ誰でも漫画家になれてしまうのだなぁとしみじみ。同人上がりの作家をデビューさせるにはちょうど良いあんばいなのかもね、などとふと思う。
漫画と小説の違いについていまさらながら考えていたのだけど、両者とも大きく「セリフ」と「それ以外」とに分けることができるのね。漫画で言えば、吹き出しの文字とコマで割られた絵であるし、小説でいえば、カッコ書きの会話文と地の文。何をいいたいのかといえば漫画の絵は小説でいうところの地の文だったのよね、ってこと。まあ、いまさらといえばいまさらですね。
そして最近の漫画はといえば、小説でいうところの地の文が吹き出しの中に潜り込んで増殖してきた感じがする。というか、吹き出しの中の文字が多くなってきた。言葉で伝えてしまえ的な作風を感じる。料理漫画が特にそんな感じよね。まあ、レシピは絵でまかなえても、手順やコツをどこに納めるかを考えた結果、セリフでまかなってしまえという戦略をとっているのが多いからなんだろうなぁ。でもセリフが多いなぁ。多くね? そんな感覚。
そして本日の主題「14歳の恋」です。作者は水谷フーカ。
これはセリフが少ない。少ない。そして絵が多い。コマ割も大胆な感じ。似たような絵を続けておいて大コマをどーん、とか。全体構成が上手い、というか全ページのサムネール化や各コマをばらして再構成といった作業を頭の中で難なくこなせるんだと思う。短編だからできるという話もあるけど、どうなのかな。とかくこの手の作業は効率よりも手を動かすことを良しとする人が得意とする傾向があると思っているのだが、はて。と話題がすれた。
ええと、物語は中学2年生の男の子と女の子が恋仲になってからのお話です。
アマゾンではタイトルから受ける印象なのかしら、恋仲にいたるまでのあれやこれやの甘酸っぱいなんやかんやを期待した方々の低評価のコメントで散々なですが、そこをお楽しみになりたい方々にとっては、確かに本作は不向きです。だって冒頭第一話には相思相愛を確認し、つきあいましょうってな感じなのですもの。なので本作のおもしろは「めでたし、めでたし」で終わった童話のその先を想像したい方にこそ、ではないかしら。
それで話は、恋仲になった二人がお互いの関係は伏せておきましょうというところから始まります。ただ、二人の間柄は絶対秘密にしなければいけないという関係でもないし、ばれたらばれたでお似合いな二人に収まる二人なんですが、お似合いすぎてあえて公言しないというスタンス。まあ、全体的に平和なのよね。そして周囲の生徒も先生も変な勘ぐりをしない健全さがあって、まるで良家のご子息が集まっている感じ。予定調和的ともいえる。少しうがった見方をすれば、この積極的ご都合主義を下敷きにすることでセリフを削って絵で見せるという漫画的表現に作家の側が確信犯的に突き進んでいるという感じがあるのよね。
丸めてしまえば、地の文が面白い小説があるように、コマで割られた絵が面白い漫画でした。
今回は尻すぼみレビューで終わり。

さて、威力業務妨害罪で逮捕された片山被告について。一貫して無罪を主張していた彼が、保釈後に一連の事件についての関与を認めたという。
この事件について、どこか釈然としないものがあり、果たしてそれは何かしらとつらつらと考えていた。なんとも不思議な事件である。
そもそもの発端は、ネット上に残された犯行予告めいた書き込みである。この書き込みによる実害があったことから警察は捜査を開始し、いくつかのえん罪が生まれたことは既に報道された。その後片山被告が捜査線上に浮かび上がり、逮捕・起訴される。
釈然としないことの一つが、片山被告の罪状は、威力業務妨害であるが、この事件に関連したいくつかのえん罪との関わりがどうなるのだろうかということ。これらのえん罪の責任は検察にあるのは当然として、片山被告はその件に関して責任を問えるのだろうか。さてわからん。
えん罪に問われた方々が片山被告を訴えることはできる、と思う。それは、自分のPCに対して「ウイルス」を仕込んだということに関しての訴えだ。それはできる。でも、その被害の範囲として、えん罪に問われた分までを含めることはできないはず、多分。えん罪に関するあれこれは検察を相手にするべきだろう。
では検察はえん罪を発生させた責任を片山被告に問えるのだろうか。えん罪に至るまでの道筋を片山被告が用意した、あるいは検察をそそのかしてえん罪を起こさせた、とし、えん罪を教唆したとして告訴するのは、かなり無理がある、と思われる。そもそも、えん罪は事件の捜査の結果であって、片山被告は捜査権を持っていないのだから、なにをかいわんやだ。でも捜査妨害というのはあるのかもしれない。あるのかな。
そして、もう一つの疑問。片山被告の保釈後の出来事がどうにも釈然としない。
既に報道されているように、片山被告が保釈後に開かれた公判中に真犯人を名乗る者からメールが届く。そのメールが届く前に警察は保釈された片山被告が河川敷に何かを埋めていたことを目撃している。そしてメールが届いたあとで、現場を掘り起こしたところスマートフォンを発見した。
この報道の通りとするならば、警察は片山被告が何かを埋めたのを目撃しただけで、なんの行動も起こさなかったということだ。どうして行動しなかったのだろう。これがもう一つの釈然としないことだ。
片山被告が何を埋めたのか、それがどのような目的を持った行動だったのかが気にならなかったのだろうか。気にならなかったのだろう、たぶん。忙しかったのかもしれない。
そして、その結果、真犯人を名乗る者からのメールが届く。その後掘り起こしたら片山被告のDNAが検出されたスマートフォンが発見される。そして、事件への関与を片山被告が認める。
つまり、片山被告が何を埋めたのかということに関心を向けず、その行動に何かの目的があるとも思っていなかったが故に、メールは送信された、ともいえる。そして、関心を向けていたら、メールが送信されなかった、ともいえる。
斯くしてメールは送信され、その後片山被告のDNAが検出された。
思惑で事を語るのはどうかと思うが、誰かが書いた筋書き通りにことが進んでいるという印象がどうしてもぬぐえないのだが、この一連の出来事をして、片山被告は踊らされた、とは言わない。しかし彼が踊ることを誰も止めなかった、とは言えるかもしれない。そしてメール送信くらいで良かったね、とも言えるだろう。あるいはメール送信くらいだろうという予断はあったのかもしれない、とも言える。あったに違いない、とは言い過ぎとしてもだ。
しかし、そもそもこの事件って、これほどまでに大事になるような事件だったのかしら。自作自演とは言わないが、マッチポンプな印象がどこまでもぬぐえないところが、かなり怖い事件でした。

橋本氏が公示後にツイッターで発言したというニュースを読んだ。
ライブドアの堀江氏のことを思いだした。
時代の波にルールが追いついていないときに、
その波に乗ってしまうか、あるいはルールを守るのかという選択は、
確かに心を悩ませる。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
でも、これは市井の人であるからできることである。
ビートたけしが赤信号を渡れば問題とされる。
警察官が渡っても問題になる。
では、なぜ橋本氏は渡ったのか。
政策的小異を認めず、八策に従うことを強く求めるのに、
赤信号は渡ってしまう、確信犯的なうかつさ。
かように考えれば、橋本市は、革命を目指しているのかも知れない。
政治活動はその一理塚に過ぎず、
屍累々な三里塚をも乗り越えようというのか。
でも、お金が絡むとルールを水面下に沈ませることもできるが、
政治が絡むといったんは沈むものの、すぐに目立つところに浮き上がってくる。
だからこそ、そんな大それたことを考えているのではなく、
単なる票稼ぎだったりするのかも知れない。
とすれば、選管が警告する前に、
そうね明日あたり、スイマセンでした、なんて頭を下げ、
もうしません、反省してますとか言ってそう。
やんちゃ感をアピール!という作戦なのか。
今はまだ石原氏が代表だから極端な反則技はないと思うが、
橋本氏が国政に出てくるとなると、国会運営とか大変そう。
その前に、門戸が閉じてしまうのかもしれないけど。

心を激震させる文章もあるが、軽く震えるだけの文章もあるということ。

2012年の文藝の冬号を買ったら裏表紙に編集手帳の広告が載っていた。
先日も電車の車内広告で見かけ、女性の頰に残された涙の跡を見て、
作為的だなぁと思いつつ本文を読んで、
その力の足りなさ加減にがっかりしたことを思いだした。
ちょっと前に見た、老いた母の写真をバックに綴られた、
親孝行を片思いと重ねた文章は秀逸だと思ったのに、だ。
いやいやこれはもしかして、自分の好き嫌いで判断しているのかもと、
もっと優しい目線で、おおらかな気持ちで裏表紙の広告文を読むものの、
程度の差こそあれ、残念な感じを打ち消すことはできない。
「紅葉の三条件」の中に「人生の悲哀」を見出す視点は期待感を高めるが、
本文に使える文字数を気にしたのだろう、力でねじ伏せる強引さがやな感じ。
今年だったか甲子園で150kmを投げる剛速球投手がいたけど、
結局、チームが点を取れずに敗退したことを思いだした。
せっかく作為的とも思える女性の涙と付き合わせるのだから、
もっとコピーはこの女性に寄り添い、支えなくてはダメだろう。
あるいはこの作為的な写真を忘れさせるくらいに超強引に頑張るか、だ。
ただ、広告としては結構面白いところもある。
それは、いい話を書こうとしている気持ちだけはちゃんと伝わってきて、
そおかげで、なんとかぎりぎり広告として成り立っているのだ。
この、気持ちだけが伝わってくるってところは非常に漫画的でもあるので、
平成世代の広告屋の打ち損じってところでしょうか。
もしですよ、もし、実は昭和の広告屋が、
この漫画的ともSNS的とも、Web2.0的ともいえる手法を
確信犯的に使っているのだとしたら、慣れないことをしましたね。
なんて、好い加減なこといって、えらいスンマセン。。。m(__)m

デビュー三作目の本作。「英語になったニッポン小説」(1996年)の中で著者である青山南は、プリンストン在住時の村上春樹に対するインタビュー記事を引用し、村上春樹にとって処女作と第二作は(つまり「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」のことであるが)村上のなかでは「忘れてしまいたい」ものになっていると語る。そうした経緯もあり、アメリカにおける村上春樹のデビュー作は「羊をめぐる冒険」となっている、らしい。ちなみに、青山氏は「羊を」の英訳版はオリジナルの日本語版とは翻訳という技法を使うことで意識的に変えているとも指摘している。その1つとして氏が指摘するのが章タイトルの違いだ。例えば日本語版では、第一章が「1970/11/25」、第二章が「1978/7月」、第三章が「1978/9月」となっているのだが、それが英訳では第一章が「Prologue」、第二章は「July, Eight Years Later」、第三章が「September, Two Months Later」となっていると指摘する。そう、年号が消えているのだ。しかも年号の削除はタイトルだけに留まらない。文中の西暦表示もすべて消し去られているという。そしてこの違いにいて、翻訳時のいわゆる言い換えではなく、意図を持って行われた作業であって、それは翻訳を超えた何かだとも指摘している。

言わずと知れたハルキムラカミの第二作。ちなみに裏表紙には「青春三部作」の第二弾と紹介されているが、この「1973年の」が「青春三部作」の第二作であることを知る人は案外少ない。どうでも良いことであるが(笑)。
この物語はなかなか本題に入らない前置きの長い物語だ。酒を呑もうと誘われ、何があったのかなと思いつつ飲み始め、特にそれらしい話もないまま会計を済ませた店の軒先で立ち止まり、夜空に淡く浮かぶ雲にぼんやりと透ける月を見上げながら「俺さ、」と、ようやく本題に入れる僕の友人みたいな、そんな話だ。
人はあらかじめ決められた持ち時間をもっている、と思う。ハミガキのための持ち時間。朝ご飯のための持ち時間。幼年期のための持ち時間に人生のための持ち時間。どうだろう、多分あっている。そして、打ち明け話も、その多くが、持ち時間をあらかじめ想定されたうえで語られる。つまり開口一番に打ち明け話が始まれば、その打ち明け話はどうにかされることを望んでいるが、持ち時間のぎりぎり一杯に話し始められる打ち明け話はそれを拒んでいる、かのようにも思える。そこにあるがままにあることを希望しているかのようだ。まさしく打ち明けられるだけの話だ。
「1973年の」でも多くの人々が打ち明け話をする。「僕」はもちろん、共同経営者、事務を担当する女の子、鼠、ジェイ。配電盤を交換する工事の人でさえ朝食を食べながら打ち明け話をする。
まあ、小説なんて打ち明け話の集大成みたいなものだからさ、という話もあるが、それでもやはりハルキムラカミ的な特徴がこの物語にもあって、それが双子の存在だ。あと、女も。鼠と出会う女ですね、念のため。
ふと気付くと、双子と女が打ち明け話をしない。
なぜ彼らは打ち明け話をしないのか。いや、そうではない、なぜ小説の書き手は彼らの打ち明け話を綴らないのか? だ。
「これはピンボールについての小説である」
という一説が冒頭に、といってもしばらく読み進めたところに書かれている。そして確かにピンボールを巡る打ち明け話が書かれている。それ以外の人々の打ち明け話も。
しかし、双子と女についてはノーマークだ。
そんなわけで、「1973年の」とは、つまりあれだ、語られない物語に関しての物語だと思うわけだ。では、語られない物語とはなんであるか、それは、誰もが知っていて、超有名なこと。当たり前で言うまでもないこと。そしてどうにもならないこと。そんなところだろう。そんな語られない物語に対峙したときの振る舞いについて語ろうとしているのではないかとさえ思う。そのための装置が双子と女だと読めてしまうのだが、はて?
物語は双子の姉妹を見分ける方法について、その方法のいくつも知らないと「僕」が語るところから始まる。というか、ようやく本題が始まっている。それに対して双子は「だって全然違うじゃない」「まるで別人よ」と驚く。当然だ、彼女たちにとって二人は双子という関係ではなく、「私」と「あなた」であるからだ。「僕」からみると「208」「209」の二人も当事者に取っては「私」と「あなた」の関係になる。見分けるまでもないのだ。
それ以後も双子はあらかじめすべての出来事を知っていたかのように振る舞う。配電盤のありかを「有名よ」と言い当て、配電盤の話をしようと言う「僕」に向かって双子は「あなたには荷が重すぎたのよ」と諭す。
全知全能の神は打ち明け話をしないということだろうか。その一方で打ち明け話をしない双子に対する僕はといえば、そこ事を気にも留めない。どこから来て、どこへ帰るのか。なぜ知っているのか。何を知っているのか。そして、双子とは何か。
双子の存在は「僕」にとって福音だったのだろうか。
ここで鼠の事を語ろうと思う。この物語は「僕」の物語であるとともに「鼠」の物語でもあるのだ。忘れてはいけない。というか、正直、鼠のシーンは読み飛ばしがちなので語ることも少ないのだが、まあ、それはこちらの事情であるからまあいい。ともあれ、鼠だ。
打ち明け話をしない女を前に、鼠はあれこれと想像する。語られない打ち明け話は他方で想像力をかき立てる。悪魔はいつだって口が堅い。
打ち明け話を語らない双子と女、そして語らない相手を前に異なる反応を見せる「僕」と鼠。この二組の登場人物の物語にスパイスをきかせる第三の登場人物が女の子とジェイだろう。この第三の登場人物を3つめのフリッパーと捕らえている私の読み方はかなりうがっていると思うのだがどうだろうか。もちろんボールは打ち明け話だ。
そしてゲームは終わり、双子は元の場所に帰り、鼠は町を捨てる。
前置きの長い打ち明け話はなぜか失う方向に進みたがるように思えてならない。そしてそれに対峙する人は、というか、ハルキムラカミの世界の住人は、なぜに諦める方向に進みたがるのだろうか。かっこいいのか、それが?