booksの最近のブログ記事

金曜日の7時頃に書店の漫画コーナーに立つと、どこか妙な感じ。というのもその場に立つ大人と呼ばれても不思議はないだろう年代の方々が多いからだろう。中高生が右往左往する場所という印象は今や昔、このところの漫画コーナーの大人比率にはちょっとびっくりです。
そんなこんなでこのところの漫画事情ですが、ライトノベルの漫画化はもとより、大人比率の高さに気を良くして、あるいは大人に気を遣っているのが、小説の漫画化とかも結構あったりして、絵がかければ誰でも漫画家になれてしまうのだなぁとしみじみ。同人上がりの作家をデビューさせるにはちょうど良いあんばいなのかもね、などとふと思う。
漫画と小説の違いについていまさらながら考えていたのだけど、両者とも大きく「セリフ」と「それ以外」とに分けることができるのね。漫画で言えば、吹き出しの文字とコマで割られた絵であるし、小説でいえば、カッコ書きの会話文と地の文。何をいいたいのかといえば漫画の絵は小説でいうところの地の文だったのよね、ってこと。まあ、いまさらといえばいまさらですね。
そして最近の漫画はといえば、小説でいうところの地の文が吹き出しの中に潜り込んで増殖してきた感じがする。というか、吹き出しの中の文字が多くなってきた。言葉で伝えてしまえ的な作風を感じる。料理漫画が特にそんな感じよね。まあ、レシピは絵でまかなえても、手順やコツをどこに納めるかを考えた結果、セリフでまかなってしまえという戦略をとっているのが多いからなんだろうなぁ。でもセリフが多いなぁ。多くね? そんな感覚。
そして本日の主題「14歳の恋」です。作者は水谷フーカ。
これはセリフが少ない。少ない。そして絵が多い。コマ割も大胆な感じ。似たような絵を続けておいて大コマをどーん、とか。全体構成が上手い、というか全ページのサムネール化や各コマをばらして再構成といった作業を頭の中で難なくこなせるんだと思う。短編だからできるという話もあるけど、どうなのかな。とかくこの手の作業は効率よりも手を動かすことを良しとする人が得意とする傾向があると思っているのだが、はて。と話題がすれた。
ええと、物語は中学2年生の男の子と女の子が恋仲になってからのお話です。
アマゾンではタイトルから受ける印象なのかしら、恋仲にいたるまでのあれやこれやの甘酸っぱいなんやかんやを期待した方々の低評価のコメントで散々なですが、そこをお楽しみになりたい方々にとっては、確かに本作は不向きです。だって冒頭第一話には相思相愛を確認し、つきあいましょうってな感じなのですもの。なので本作のおもしろは「めでたし、めでたし」で終わった童話のその先を想像したい方にこそ、ではないかしら。
それで話は、恋仲になった二人がお互いの関係は伏せておきましょうというところから始まります。ただ、二人の間柄は絶対秘密にしなければいけないという関係でもないし、ばれたらばれたでお似合いな二人に収まる二人なんですが、お似合いすぎてあえて公言しないというスタンス。まあ、全体的に平和なのよね。そして周囲の生徒も先生も変な勘ぐりをしない健全さがあって、まるで良家のご子息が集まっている感じ。予定調和的ともいえる。少しうがった見方をすれば、この積極的ご都合主義を下敷きにすることでセリフを削って絵で見せるという漫画的表現に作家の側が確信犯的に突き進んでいるという感じがあるのよね。
丸めてしまえば、地の文が面白い小説があるように、コマで割られた絵が面白い漫画でした。
今回は尻すぼみレビューで終わり。

デビュー三作目の本作。「英語になったニッポン小説」(1996年)の中で著者である青山南は、プリンストン在住時の村上春樹に対するインタビュー記事を引用し、村上春樹にとって処女作と第二作は(つまり「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」のことであるが)村上のなかでは「忘れてしまいたい」ものになっていると語る。そうした経緯もあり、アメリカにおける村上春樹のデビュー作は「羊をめぐる冒険」となっている、らしい。ちなみに、青山氏は「羊を」の英訳版はオリジナルの日本語版とは翻訳という技法を使うことで意識的に変えているとも指摘している。その1つとして氏が指摘するのが章タイトルの違いだ。例えば日本語版では、第一章が「1970/11/25」、第二章が「1978/7月」、第三章が「1978/9月」となっているのだが、それが英訳では第一章が「Prologue」、第二章は「July, Eight Years Later」、第三章が「September, Two Months Later」となっていると指摘する。そう、年号が消えているのだ。しかも年号の削除はタイトルだけに留まらない。文中の西暦表示もすべて消し去られているという。そしてこの違いにいて、翻訳時のいわゆる言い換えではなく、意図を持って行われた作業であって、それは翻訳を超えた何かだとも指摘している。

言わずと知れたハルキムラカミの第二作。ちなみに裏表紙には「青春三部作」の第二弾と紹介されているが、この「1973年の」が「青春三部作」の第二作であることを知る人は案外少ない。どうでも良いことであるが(笑)。
この物語はなかなか本題に入らない前置きの長い物語だ。酒を呑もうと誘われ、何があったのかなと思いつつ飲み始め、特にそれらしい話もないまま会計を済ませた店の軒先で立ち止まり、夜空に淡く浮かぶ雲にぼんやりと透ける月を見上げながら「俺さ、」と、ようやく本題に入れる僕の友人みたいな、そんな話だ。
人はあらかじめ決められた持ち時間をもっている、と思う。ハミガキのための持ち時間。朝ご飯のための持ち時間。幼年期のための持ち時間に人生のための持ち時間。どうだろう、多分あっている。そして、打ち明け話も、その多くが、持ち時間をあらかじめ想定されたうえで語られる。つまり開口一番に打ち明け話が始まれば、その打ち明け話はどうにかされることを望んでいるが、持ち時間のぎりぎり一杯に話し始められる打ち明け話はそれを拒んでいる、かのようにも思える。そこにあるがままにあることを希望しているかのようだ。まさしく打ち明けられるだけの話だ。
「1973年の」でも多くの人々が打ち明け話をする。「僕」はもちろん、共同経営者、事務を担当する女の子、鼠、ジェイ。配電盤を交換する工事の人でさえ朝食を食べながら打ち明け話をする。
まあ、小説なんて打ち明け話の集大成みたいなものだからさ、という話もあるが、それでもやはりハルキムラカミ的な特徴がこの物語にもあって、それが双子の存在だ。あと、女も。鼠と出会う女ですね、念のため。
ふと気付くと、双子と女が打ち明け話をしない。
なぜ彼らは打ち明け話をしないのか。いや、そうではない、なぜ小説の書き手は彼らの打ち明け話を綴らないのか? だ。
「これはピンボールについての小説である」
という一説が冒頭に、といってもしばらく読み進めたところに書かれている。そして確かにピンボールを巡る打ち明け話が書かれている。それ以外の人々の打ち明け話も。
しかし、双子と女についてはノーマークだ。
そんなわけで、「1973年の」とは、つまりあれだ、語られない物語に関しての物語だと思うわけだ。では、語られない物語とはなんであるか、それは、誰もが知っていて、超有名なこと。当たり前で言うまでもないこと。そしてどうにもならないこと。そんなところだろう。そんな語られない物語に対峙したときの振る舞いについて語ろうとしているのではないかとさえ思う。そのための装置が双子と女だと読めてしまうのだが、はて?
物語は双子の姉妹を見分ける方法について、その方法のいくつも知らないと「僕」が語るところから始まる。というか、ようやく本題が始まっている。それに対して双子は「だって全然違うじゃない」「まるで別人よ」と驚く。当然だ、彼女たちにとって二人は双子という関係ではなく、「私」と「あなた」であるからだ。「僕」からみると「208」「209」の二人も当事者に取っては「私」と「あなた」の関係になる。見分けるまでもないのだ。
それ以後も双子はあらかじめすべての出来事を知っていたかのように振る舞う。配電盤のありかを「有名よ」と言い当て、配電盤の話をしようと言う「僕」に向かって双子は「あなたには荷が重すぎたのよ」と諭す。
全知全能の神は打ち明け話をしないということだろうか。その一方で打ち明け話をしない双子に対する僕はといえば、そこ事を気にも留めない。どこから来て、どこへ帰るのか。なぜ知っているのか。何を知っているのか。そして、双子とは何か。
双子の存在は「僕」にとって福音だったのだろうか。
ここで鼠の事を語ろうと思う。この物語は「僕」の物語であるとともに「鼠」の物語でもあるのだ。忘れてはいけない。というか、正直、鼠のシーンは読み飛ばしがちなので語ることも少ないのだが、まあ、それはこちらの事情であるからまあいい。ともあれ、鼠だ。
打ち明け話をしない女を前に、鼠はあれこれと想像する。語られない打ち明け話は他方で想像力をかき立てる。悪魔はいつだって口が堅い。
打ち明け話を語らない双子と女、そして語らない相手を前に異なる反応を見せる「僕」と鼠。この二組の登場人物の物語にスパイスをきかせる第三の登場人物が女の子とジェイだろう。この第三の登場人物を3つめのフリッパーと捕らえている私の読み方はかなりうがっていると思うのだがどうだろうか。もちろんボールは打ち明け話だ。
そしてゲームは終わり、双子は元の場所に帰り、鼠は町を捨てる。
前置きの長い打ち明け話はなぜか失う方向に進みたがるように思えてならない。そしてそれに対峙する人は、というか、ハルキムラカミの世界の住人は、なぜに諦める方向に進みたがるのだろうか。かっこいいのか、それが?

「風の歌を聴け」ほどではないが、ありふれたつまらない小説は少なくない。
いきなりだが、「風の」は、戦争にいったおじいちゃんの思い出話のような壮絶な感じもなければ、近所のおばちゃんの若い頃はモテモテだったのよといった浮かれた感じもない。別に、人の死や色恋がなければ物語ではないとまでは言うつもりはないが、それにしても「風の」にはそうした『サービス』がないように見受けられるのだ。一見すると、ではあるが。
さて、「風の」がつまらないのにはいくつかの理由がある。それは登場人物のすべてが人の良さを売りにしていることと無関係ではない。しかも単なる「いいひと」ではないところがこの物語のめんどくさいところだ。人の良さを売りにする人は、優しくて、物事の成り行きを先回りしてよかれと思ってたわいもない嘘をつく。より深刻な状況にならないように嘘をつく。さらにそういう状況にならないように用意周到に準備する。
さらには、状況に合わせて、あたかもそう考えていたかのように話をつくる。自分の話を他人の話として話す。重要なことを隠すためにセンセーショナルな話題を取り上げ煙に巻く。曖昧な話題は状況を設定してその中で嘘をつく。とにかく、誰も彼も本当のことを言わない。
しかも、誰も彼もが譲歩というモノをしない。素直になれない。電車のボックス席にたまたま乗り合わせた二人が膝をつき合わせないようにはす向かいに座り、お互いが正面の空いている席の背もたれを見つめているような状態のとき、二人はお互いの右側の(あるいは左側の)表情を読み取ることはできるが、その反対側の表情を見ることはできない。もし、相手に興味があって、反対側の表情を見たいと思ったときにはお互いの目線が会うように顔の向きを変えるか、あるいは膝をつき合わせるように正面に座り直すかしかない。だが、お互いに反対側の表情を知りたいと思っているにも関わらず無関心を装いたいのか、自分から立ち位置を変えようという気はさらさらなく、ただただ見えている側の表情を頼りに隠された側の表情を想像しようとしているような感じだ。
もどかしさは時に興味を喚起させ、想像力を呼び覚ますが、伏線ばかりでその回収がなされない状況が続くと多くの場合単調でつまらないだけの印象しか残さない。しかもその伏線がわかりにくいのだから始末が悪い。伏線を張るだけ張って回収しないのであれば、伏線は誰にでもわかりやすく、センセーショナルな伏線を用意すべきだろう。エヴァのように。
話が脱線しそうだ。
というわけでこの物語を簡単にまとめると、大学の夏休みを利用て帰省した「僕」が、高校時代の友達「鼠」とよく通った「ジェイズ・バー」で女の子と出会い、そして別れるまでを描いている。あらすじを述べるとこんな簡単にまとまってしまう。シンプルな物語。
しかし、コインに裏と表があるように、「風の」のにも裏のあらすじがある、とされている。ハルキストやアンチ鼠同盟、やれやれ解放戦線、村上春樹原理主義などの皆さんが繰り広げ続けて来たそれは、夏休みに帰省した「僕」は、高校時代の友達の鼠が悩んでいることに気付き、そして、彼の悩みの種でもあるだろう一人の女の子と出会い、そして鼠が抱えている問題の解決を手助けしようとするがうまくいかず、鼠と彼女の関わりはもちろん、僕と鼠の関わりさえぎこちなくなりながら夏が過ぎていく。というものだ。
この裏の物語には、もちろん論客によって諸説さまざまな派生系があるが、その基本形があるとすれば、登場する「僕」と鼠と女の子の3人は互いに何も知らない仲ではないだろうというものだ。
その基本形をベースに、私が好きな「風の」の裏の物語はこういう読み方だ。
「僕」は鼠と交流のある小指のない女の子と知り合うが、その子は「僕」が帰省している短い間に町を出ていってしまう。そして、その女の子を追うように彼女の双子の妹(あるいは、姉)が町にやってきたのだが、今度は「僕」が東京に帰らねばならない。そして冬に帰省したときには彼女もこの町を去った後だった。
とりわけ、小指のない女の子が町から消えるの理由として、単に町を出るのではなく、病気か何かで死んでしまったのではないかという思いを消せない時がある。「僕」が嘘をつくのは、そうした事実に直面したくない時だろう。「僕」が嘘をつく限り、「僕」の中で小指のない女の子は生き続ける。
そんなわけで、この物語には、自分が抱えている問題を他人の話に置き換えないと人に伝えられない、あるいは、そうする事でしか人と話ができない人ばかりが登場する。
まあ、やたらとめんどくさい物語だ。

四人家族で年収220万円。この水準以下の家庭がアメリカでは貧困と定義されるが、日本ではどうだろう。実は日本には貧困の定義がなく、憲法25条が定めた健康的で文化的な生活に必要とされる生活保護基準が実質的な「公的貧困ライン」となっている。その金額は、3人家族で年収約276万円だ。しかし、この二つの数字が持つニュアンスは明らかに違う。220万円以下が貧困家庭と明言するアメリカに対し、276万円あれば生活できるとする日本。この差こそが日米の貧困に対する眼差しの差なのだ。
アメリカの貧困について、堤未果は『ルポ貧困大国アメリカ』の中で、新自由主義の登場でアメリカは裕福層と貧困層とに二極化するようになったと語る。福祉重視政策から市場主義政策に転換したレーガン政権は、アメリカの豊かさの象徴である中流家庭を次々と貧困層へと転落させていく。その状況をアメリカ政府は国内貧困率や18歳以下の貧困児童率、飢餓状態経験の人口数として把握し、福祉政策ではなく市場原理の活用や民営化で対応しようとする。
アメリカの貧困対策について、堤は医療制度の民営化を取り上げ、その問題点を浮き彫りにする。削減された医療費を補うため、アメリカの多くの病院は非営利型から株式会社型へと運営基盤を転換する。しかし、コスト削減と営業成績を重視するあまり医療の質が低下。やがて医療過誤が急増し、訴訟対象となりやすい産科医の担い手が減少。その結果、アメリカの乳幼児死亡率は先進国中でも極めて高くなった。民営化の影響はそれだけではない。採算性を求めて高額化する医療保険料や治療費は、多くの貧困層を無保険者にし、医療費を払えていた中間層を医療費負担による生活苦から自己破産者へと変えていく。
アメリカの貧困対策について、堤は民営化による解決という手法に問題があったと指摘する。では、格差社会が生まれつつある日本の貧困問題はどうなのだろう。この問題に詳しい、貧困者の生活相談を行ってきたNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」の湯浅誠代表は『反貧困』の中で、我が国の姿勢を貧困問題に向き合う以前の問題と切り捨て、スタートラインにも立っていないと警告する。貧困者数や貧困指標を明確にしてきたアメリカやドイツ、イギリス、韓国とは対象的に、日本政府は貧困の実体を明らかにしようとはしない。一度明らかにしてしまうと、問題の解決に取り組まねばならず、しかも、憲法25条に違反する実状が明らかになるからだ。
こうした状況の中、湯浅は政府が実施したある調査を紹介する。それは一般世帯の消費実態と生活保護世帯に支給される生活保護費を比較した調査だ。この調査によると、一般世帯でありながら、生活保護基準以下の生活をしてする人が6~8%いたというのだ。この調査結果は思いもよらない論議を引き起こす。それは生活保護基準以下の所得で暮らす人がいるのだから生活保護費も引き下げようというものだ。政府はあくまでも日本に貧困はないという姿勢を固持する。ここで交わされている論議は貧困者を守るという発想でないばかりか、生活保護基準が担う「公的貧困ライン」の意味すら危うくさせるのだ。
この日米の貧困を紹介する二冊はそれぞれの国の貧困対策の問題点を指摘している。アメリカの貧困対策はその手法に問題を抱え、日本は貧困の存在にすら向き合っていないのだ。湯浅氏が語る日本の現状は暗いが、そこで明らかにした問題を正すために氏は次なる行動に出る。その一つが去年12月に首都圏青年ユニオンとともに結成した「反貧困たすけあいネットワーク」だ。現実世界での出来事を検証しながら読み進めることで見えてくることがあるに違いない。

湯浅 誠『反貧困 -「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書, 2008)
堤 未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書, 2008)

日本からの「見えないアメリカ」

 アメリカは不思議な国だ。経済や地域といった対立はあるものの、社会主義や全体主義などのイデオロギーに向かうことはない。しかも、新自由主義のもとで貧困にあえぐ労働者でさえ、自由主義の枠の中で闘うことを選ぶ。だがしかし、そのアメリカも一歩中に入ると決して一枚岩ではない。ヒトが二人いればイデオロギーの対立が生まれるように、自由主義しか選ばないアメリカにも保守とリベラルという二つの対立する立場があるのだ。自由主義しかない中での保守とリベラルとは何なのだろうか。
 それについて、ヒラリー陣営の本部スタッフとして選挙に参加した経験を持つ筆者は、アメリカにあるのは保守とリベラルという二項対立だけではないと指摘する。その影には、理念や論理を優先する「アカデミック」に対し、日々の暮らしや宗教観に流されがちな「土着」という対立が隠されており、アメリカの保守はアカデミック保守と土着保守とに、リベラルもアカデミックリベラルと土着リベラルとにそれぞれ細分化されるという。
 たとえば銃規制の問題を筆者は取り上げる。実はアメリカにおける銃は「自衛の権利」とは別に、ハンティングという伝統文化に根ざした文脈からも語られる。そのため、本来リベラルな民主党支持者がハンティングという暮らしに根付いた伝統文化を守るために銃を養護し、その一方で保守派である共和党支持者が動物愛護というアカデミックな視点から銃規制を求めるという現実に出会う。こうした傾向はスポットライトの当たりやすいシングルイシュー的な問題ほどに顕著化し、その背後に存在する複雑な対立の構図は長い影となって保守とリベラルとを分断すると分析する。そして、それは奴隷制や性差、戦争を巡る是非などさまざまな局面で起きているというのだ。
 本書は、保守とリベラルの対立が上手く機能する限り、自由主義一辺倒のアメリカを豊かな存在にするだろうと評価する。日本からは見えてこないアメリカの不思議を分かりやすく解き明かす現代のアメリカ見聞録だ。

この現実は5年後の日本でもある

 お金を稼ぐために何が必要かを考えると意外な答えにたどり着く。それがお金だ。これはパラドックスではない。チップを持たない者はポーカーゲームに参加できないのだ。しかし、現実には多くの貧困者がこのゲームに巻き込まれ、なけなしの金を失い、負債まで負わされているのが今のアメリカだ。
 筆者である堤未果は米国野村證券勤務中に9・11同時多発テロに遭遇。それを機にジャーナリストに転身。以来、アメリカの新自由主義政策に警笛を鳴らし続けている。本書ではさまざまなデータや現地アメリカ人の声を交えながら市場原理が弱者を切り捨てるアメリカの現状を告発している。
 本書が語るのは、チップを持たずにゲームに参加する方法とその結末だが、その一例としてサブプライムローンが紹介される。一般に住宅ローンの利子は低く、日本国内では4%を越えることはまずない。サブプライムローンも最初の数年こそ低いが、その後は10~15%にまで跳ね上がる。元金が高額になる住宅ローンでの10%の利子は、明らかに借り手の無知を前提にしている。まさに市場原理が生んだ貧困層から搾取する現代の錬金術であり、富裕層の財布を全く痛めずに市場に潤沢な資金を供給するシステムだ。そして、このサブプライムローンに次ぐ問題がアメリカの学資ローンだ。国の教育予算の削減によって大学の学費が高騰。彼らは社会に出た瞬間から多大な借金を抱えており、実にその39%の借金が返済不可能だというのだ。しかも、学資ローンは自己破産に陥っても本人が死ぬか障害者になるか、あるいは軍に入隊する以外に返済免除はない。つまり、アメリカの貧困者の教育は戦争という受け皿の上で成立している。
 本書では他にも福祉の削減が増やす貧困層の肥満や、弱者を食い物にする公共・医療サービスの民営化を伝えている。ポーカーゲームにはまだアメリカンドリームがあるが、現代アメリカという賭場には貧困を生み出すシステムしかないと本書は指摘する。

って、感じの本。

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花束をもらった時はいつも、ドライフラワーにするんだけど、今回は、つぼみの花が何個かあったので、それを咲かせるまで頑張ってみようとかと思う今日この頃です。まあ、そんな話題はどうでも良くて、今回は「3月のライオン」。映画はぶっちぎりで良かったけど、今回はマンガ。ちなみに、映画は羽海野チカとは関係のない矢崎監督によるオリジナルストーリー。映画はステキよ。
んで、マンガの3月のライオンだけど、手放しで褒めちぎる方がいる一方で、辛辣なコメントをよこす方もいるなど、誰しもがハチクロに引きずられているなぁ、などと独り言ちしてみる。
まあ、それはそれでしょうがないけど、まだ一巻じゃないですか。そんなに結果を急いでどうする、ってなかんじ。まあ、微笑ましい話には違いないので、まあ、良いんとちゃいますか。
そして、今日は写真部関係の宴会。みんな卒業おめでとう。
Nさんも言っていたけど、Kさんは可愛いですよ。キュートっていうのだろうね。多分。

「江国香織のホーリーガーデンを彷彿とさせるストーリーアボーイハントアガール」、などというと「?」な人続出なんだろうけど、だって、そう思うんだからしょうがないじゃんと開き直りが平成20年って感じ。とまあ、軽く煙にまいたところで感想文の始まりはじまり。
例えば、ソシアルダンス。このステップは時代という洗礼を受けているため、男女の身長差を当たり前のように吸収できるおおらかさに溢れていて、逆に言えば、身長差が逆転している男女のペアにはとてもやりにくい。でも、恋する二人には、そのやりにくささえもエナジーにしてしまうほどのなにかがソシアルダンスにはあった。多分ね。つまり、お互いの距離感というか、間合いを知っている限り(今風にいえば、その存在を信じている限り)、状況が二人に適してなくとも二人の関係は大丈夫ってことな。まあ、当たり前なお話なんだけど。そして、その距離感を掴めない二人が出会ったらどうなるの?っていうのが今回。だからといって、特に何かを頑張ったり、特訓したり、山に籠もって修行したり、ってなことには全然ならないのが平成20年風なんだけど、ただのんびりとお互いがお互いの日常を過ごしているうちに「社会」というルールを覚えるともなしに覚えてしまい、そのルールをよりどころに距離感を測れるようになったね。良かったね。ってStory a boy hunts a girl.
今の時代、「偶然」は、意外にも日常の中で多発しているのかなって思う今日この頃でした。ローリングストーンではないけど、最初に石を転がすための頑張りは必要だけど、一度転がりだした石は意外に長く転がり続けていくように思えるんだなぁ。これが。
とか、なんとかとつれづれ思う今日は東京の桜開花予定日前日。

取り上げる理由など特になく、ましてや義理も恩義も何もないのだが、しかし、さりとて気になる話というものがありまして、それがこれ。まんがだよ。まんが。
物語については、あちこちのページが紹介しているので、そっちを。っていうか、紹介するほどでもないんだよね。実際のところ。
この物語のメインテーマは、かつて邦画の最高峰と言わしめた「クレヨンしんちゃん モーレツおとな帝国の逆襲」と同じ方向にある。(「クレヨンしんちゃん」を未見の方には説明がいると思うが、この子ども向けアニメはノスタルジーの甘美さの受容とそれに対する警告という構造を持って描かれているが、この映画の何が面白いのかについてはここでは述べない。)つまり、メインテーマはノスタルジーだ。しかしながら、本作の描くノスタルジーのスケールは矮小化され、局地的でさえある。まあ、だからこそ価値が生まれるのだが。分かる人には分かるという言い方は好きではないが、まさにその感覚に陥るのがこのマンガだ。
「彼らのようになりたい」とは思わないが、彼らの今後がどうなるかは気になる。
今、2巻まで出ているが、作者が遅筆なのか、編集の狙いがあるのかは分かりませぬが、不定期連載なので、3巻がいつ出るかは定かではありませぬ。

というわけで、何の説明にもなってねーなー。

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