2012年6月アーカイブ

言わずと知れたハルキムラカミの第二作。ちなみに裏表紙には「青春三部作」の第二弾と紹介されているが、この「1973年の」が「青春三部作」の第二作であることを知る人は案外少ない。どうでも良いことであるが(笑)。
この物語はなかなか本題に入らない前置きの長い物語だ。酒を呑もうと誘われ、何があったのかなと思いつつ飲み始め、特にそれらしい話もないまま会計を済ませた店の軒先で立ち止まり、夜空に淡く浮かぶ雲にぼんやりと透ける月を見上げながら「俺さ、」と、ようやく本題に入れる僕の友人みたいな、そんな話だ。
人はあらかじめ決められた持ち時間をもっている、と思う。ハミガキのための持ち時間。朝ご飯のための持ち時間。幼年期のための持ち時間に人生のための持ち時間。どうだろう、多分あっている。そして、打ち明け話も、その多くが、持ち時間をあらかじめ想定されたうえで語られる。つまり開口一番に打ち明け話が始まれば、その打ち明け話はどうにかされることを望んでいるが、持ち時間のぎりぎり一杯に話し始められる打ち明け話はそれを拒んでいる、かのようにも思える。そこにあるがままにあることを希望しているかのようだ。まさしく打ち明けられるだけの話だ。
「1973年の」でも多くの人々が打ち明け話をする。「僕」はもちろん、共同経営者、事務を担当する女の子、鼠、ジェイ。配電盤を交換する工事の人でさえ朝食を食べながら打ち明け話をする。
まあ、小説なんて打ち明け話の集大成みたいなものだからさ、という話もあるが、それでもやはりハルキムラカミ的な特徴がこの物語にもあって、それが双子の存在だ。あと、女も。鼠と出会う女ですね、念のため。
ふと気付くと、双子と女が打ち明け話をしない。
なぜ彼らは打ち明け話をしないのか。いや、そうではない、なぜ小説の書き手は彼らの打ち明け話を綴らないのか? だ。
「これはピンボールについての小説である」
という一説が冒頭に、といってもしばらく読み進めたところに書かれている。そして確かにピンボールを巡る打ち明け話が書かれている。それ以外の人々の打ち明け話も。
しかし、双子と女についてはノーマークだ。
そんなわけで、「1973年の」とは、つまりあれだ、語られない物語に関しての物語だと思うわけだ。では、語られない物語とはなんであるか、それは、誰もが知っていて、超有名なこと。当たり前で言うまでもないこと。そしてどうにもならないこと。そんなところだろう。そんな語られない物語に対峙したときの振る舞いについて語ろうとしているのではないかとさえ思う。そのための装置が双子と女だと読めてしまうのだが、はて?
物語は双子の姉妹を見分ける方法について、その方法のいくつも知らないと「僕」が語るところから始まる。というか、ようやく本題が始まっている。それに対して双子は「だって全然違うじゃない」「まるで別人よ」と驚く。当然だ、彼女たちにとって二人は双子という関係ではなく、「私」と「あなた」であるからだ。「僕」からみると「208」「209」の二人も当事者に取っては「私」と「あなた」の関係になる。見分けるまでもないのだ。
それ以後も双子はあらかじめすべての出来事を知っていたかのように振る舞う。配電盤のありかを「有名よ」と言い当て、配電盤の話をしようと言う「僕」に向かって双子は「あなたには荷が重すぎたのよ」と諭す。
全知全能の神は打ち明け話をしないということだろうか。その一方で打ち明け話をしない双子に対する僕はといえば、そこ事を気にも留めない。どこから来て、どこへ帰るのか。なぜ知っているのか。何を知っているのか。そして、双子とは何か。
双子の存在は「僕」にとって福音だったのだろうか。
ここで鼠の事を語ろうと思う。この物語は「僕」の物語であるとともに「鼠」の物語でもあるのだ。忘れてはいけない。というか、正直、鼠のシーンは読み飛ばしがちなので語ることも少ないのだが、まあ、それはこちらの事情であるからまあいい。ともあれ、鼠だ。
打ち明け話をしない女を前に、鼠はあれこれと想像する。語られない打ち明け話は他方で想像力をかき立てる。悪魔はいつだって口が堅い。
打ち明け話を語らない双子と女、そして語らない相手を前に異なる反応を見せる「僕」と鼠。この二組の登場人物の物語にスパイスをきかせる第三の登場人物が女の子とジェイだろう。この第三の登場人物を3つめのフリッパーと捕らえている私の読み方はかなりうがっていると思うのだがどうだろうか。もちろんボールは打ち明け話だ。
そしてゲームは終わり、双子は元の場所に帰り、鼠は町を捨てる。
前置きの長い打ち明け話はなぜか失う方向に進みたがるように思えてならない。そしてそれに対峙する人は、というか、ハルキムラカミの世界の住人は、なぜに諦める方向に進みたがるのだろうか。かっこいいのか、それが?

「風の歌を聴け」ほどではないが、ありふれたつまらない小説は少なくない。
いきなりだが、「風の」は、戦争にいったおじいちゃんの思い出話のような壮絶な感じもなければ、近所のおばちゃんの若い頃はモテモテだったのよといった浮かれた感じもない。別に、人の死や色恋がなければ物語ではないとまでは言うつもりはないが、それにしても「風の」にはそうした『サービス』がないように見受けられるのだ。一見すると、ではあるが。
さて、「風の」がつまらないのにはいくつかの理由がある。それは登場人物のすべてが人の良さを売りにしていることと無関係ではない。しかも単なる「いいひと」ではないところがこの物語のめんどくさいところだ。人の良さを売りにする人は、優しくて、物事の成り行きを先回りしてよかれと思ってたわいもない嘘をつく。より深刻な状況にならないように嘘をつく。さらにそういう状況にならないように用意周到に準備する。
さらには、状況に合わせて、あたかもそう考えていたかのように話をつくる。自分の話を他人の話として話す。重要なことを隠すためにセンセーショナルな話題を取り上げ煙に巻く。曖昧な話題は状況を設定してその中で嘘をつく。とにかく、誰も彼も本当のことを言わない。
しかも、誰も彼もが譲歩というモノをしない。素直になれない。電車のボックス席にたまたま乗り合わせた二人が膝をつき合わせないようにはす向かいに座り、お互いが正面の空いている席の背もたれを見つめているような状態のとき、二人はお互いの右側の(あるいは左側の)表情を読み取ることはできるが、その反対側の表情を見ることはできない。もし、相手に興味があって、反対側の表情を見たいと思ったときにはお互いの目線が会うように顔の向きを変えるか、あるいは膝をつき合わせるように正面に座り直すかしかない。だが、お互いに反対側の表情を知りたいと思っているにも関わらず無関心を装いたいのか、自分から立ち位置を変えようという気はさらさらなく、ただただ見えている側の表情を頼りに隠された側の表情を想像しようとしているような感じだ。
もどかしさは時に興味を喚起させ、想像力を呼び覚ますが、伏線ばかりでその回収がなされない状況が続くと多くの場合単調でつまらないだけの印象しか残さない。しかもその伏線がわかりにくいのだから始末が悪い。伏線を張るだけ張って回収しないのであれば、伏線は誰にでもわかりやすく、センセーショナルな伏線を用意すべきだろう。エヴァのように。
話が脱線しそうだ。
というわけでこの物語を簡単にまとめると、大学の夏休みを利用て帰省した「僕」が、高校時代の友達「鼠」とよく通った「ジェイズ・バー」で女の子と出会い、そして別れるまでを描いている。あらすじを述べるとこんな簡単にまとまってしまう。シンプルな物語。
しかし、コインに裏と表があるように、「風の」のにも裏のあらすじがある、とされている。ハルキストやアンチ鼠同盟、やれやれ解放戦線、村上春樹原理主義などの皆さんが繰り広げ続けて来たそれは、夏休みに帰省した「僕」は、高校時代の友達の鼠が悩んでいることに気付き、そして、彼の悩みの種でもあるだろう一人の女の子と出会い、そして鼠が抱えている問題の解決を手助けしようとするがうまくいかず、鼠と彼女の関わりはもちろん、僕と鼠の関わりさえぎこちなくなりながら夏が過ぎていく。というものだ。
この裏の物語には、もちろん論客によって諸説さまざまな派生系があるが、その基本形があるとすれば、登場する「僕」と鼠と女の子の3人は互いに何も知らない仲ではないだろうというものだ。
その基本形をベースに、私が好きな「風の」の裏の物語はこういう読み方だ。
「僕」は鼠と交流のある小指のない女の子と知り合うが、その子は「僕」が帰省している短い間に町を出ていってしまう。そして、その女の子を追うように彼女の双子の妹(あるいは、姉)が町にやってきたのだが、今度は「僕」が東京に帰らねばならない。そして冬に帰省したときには彼女もこの町を去った後だった。
とりわけ、小指のない女の子が町から消えるの理由として、単に町を出るのではなく、病気か何かで死んでしまったのではないかという思いを消せない時がある。「僕」が嘘をつくのは、そうした事実に直面したくない時だろう。「僕」が嘘をつく限り、「僕」の中で小指のない女の子は生き続ける。
そんなわけで、この物語には、自分が抱えている問題を他人の話に置き換えないと人に伝えられない、あるいは、そうする事でしか人と話ができない人ばかりが登場する。
まあ、やたらとめんどくさい物語だ。

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