claimの最近のブログ記事

小学4年の算数の問題がやや手強い。
Xを使った方程式を使う方法もあるが、ここは算数の手順でやってみよう。
1.jpg
 
つまり、補助線を使った方法ですね。
 
答え合わせは、続きで。

「一度言えばわかることを繰り返し言わない」

今回の一連の報道を通して思い出したことがある。「はい」は一度だけでしょ、という言葉だ。繰り返し言われたこの言葉は誰もが聞き覚えのある、現在進行形で言われている方には毎度おなじみの言葉だ。一度言えばわかることは繰り返す必要がないし、繰り返すことは嫌みになる。

それで今回の報道だが、この事件に割いている時間の割に中身がない。語られることと言えば「情報を整理」「これまでの流れを」という言葉ばかりで、夜のニュースでも朝のニュースと同じことを伝え、翌日の朝のニュースでさえ先日の朝のニュースと同じことを繰り返す。そして夜のニュースでも同じ内容が・・・。

正直どうなんだろうかと思う。そんなに繰り返さなくてはならないほど今回の事件は周知度が低いままなのだろうか。あるいは自分たちのニュース番組の視聴率の低さを放送回数で補おうとしているのだろうか。既に伝えた情報は伝わったものとして新たに得られた情報だけを伝えるということではだめなのか。続報の主たる役割は「それからどうなったか」であって「それまでどうであったか」を繰り返すことではないはずだ。それをしない、許さない理由がどこかにあって、たとえば旧世代の悪しき伝統みたいな勢力が、ニュースの重要性とはそれを伝える時間の長さで決まる的な前例主義を押しつけているように見えてならない。現在進行していることについていえば差分だけ伝えてくれれば十分なのに、そこのことを考えようとするひとが少なすぎる。それとも私が偏屈なのか。他の誰もがオレンジ色の服を繰り返し見たいと思っているのだろうか。何のために? 罰ゲーム?

補足すれば、記者の質問も「今何をしていますか」「次はどうしますか」的なことばかりが目立ち、当該地の情勢などを踏まえた上での質問がほとんどない。いや失礼。全くない。質問の多くが気の抜けた雰囲気に満ちあふれている。聞くべきことがないから聞いているという印象は否めない。たまに意気込んだ質問があるかと思えば政府への批判で、対応の遅れとか、もっとできることがあるはずだとかいう非難がほとんどで建設的な話題に向かっていかない。ひどいところだと「身代金は払うのですか」という質問さえあった。「身代金以外のどんな解決策を考えていますか」じゃないのか? やはり罰ゲームだ。

ではどうするのか。答えは単純明快である。時間を費やしたいのであれば、こんな時だからこそ政府を褒めればよい。イスラム国が一番いやがることをやらないでどうするのだ。政府に恩を押し売りイスラム国に嫌がらせをするのだ。褒めた政府は事後の検証番組でこき下ろせばよい。掲げたはしごは下ろせばいい。本当のことをいえば、何もしない方がいいとも思う。実際、この案件について政府はできることをしていると思う。それどころかマスコミの期待に応え、できないことまでやろうとしている気配さえある。一方、マスコミにできることは少ない。失礼、日本のマスコミにできることはない。だから何もしない方がいい。政府にできることが多くないように、報道機関にも伝えることなど多くないのだ。正確に言えば、政府が表立ってできることは少なく、報道機関もまた聞くべきことは少ない。直接関係のない国民は、外向きには「あー、なんかやっていますね、それがなにか」くらいの無関心を装えば良い。

そんな妄想はさておき、現実の7時のニュースは何の進展もなかったことを伝えるためだけに持てる時間の多くを費やしている。これはまるでイスラム国によるニュースジャックだ。イスラム国の報道機関の日本支部といってもいいくらいの大判振る舞いだ。おそらくだが、マスコミ自身がテロに対峙した時になすべき姿勢や態度について考えていなかったのだと思う。それゆえニュースとしての重要性を伝えるために時間を費やすことこそ報道の使命と考える誰かを止めることができず、尺を埋めるためのベタな質問を誰も止められず、記者は変だなと思いつつもバカ正直にベタな質問を繰り返すこと以外できず、そのやりとりをキャスターも同じことばかり言っている気がすると考えつつぼんやりと立ち、何となくニュースが流れていく。どこか懐かしい景色があるね。昭和20年頃のあのあたりみたい。テロとの戦いでもまた日本の報道は負けるのか。せめて政府だけは勝って欲しいのだが、これを好機と妙な一歩を踏み出そうとしている雰囲気もあってきな臭い。このあたりも懐かしい光景が見えてくる

と、また妄想に沈んでしまった。いかんいかん。

とにかく、このムダな感じをどうにかして欲しいのだ。気象庁に習って報道番組も「50年に一度の記録的な災害」みたいな分類をニュースに導入したらどうだろう。重要度の高いニュースには「50年に一度の記録的なニュース」というテロップでも流せばいいと思う。そうすれば重要度をテロップで伝えることができ、ニュースは純然たる続報に徹底できる。ついでに、一つのニュースに費やす時間を決めておくというのも良い。1ニュース5分で冒頭の15分はトップニュース。残りは政治・経済・社会で分け合って、最後に3面記事的な話題と天気予報とかどうだ。

余談はともあれ、テロの非道さを伝えることはテロが無視できない脅威であることを伝えてしまうことを否定できないし、政府の行動を無策と非難することはテロと交渉せよという間違ったメッセージを人々に送ってしまいかねない。いわばパレード効率的な状態であることを自覚しなくてはいけないのだが、さすがというか、ここでと問うべきか、時流にめざとい議員が早速政争のネタとして使い始めている。テロ対策は不十分でも、与(野)党対策、派閥対策は万全らしい。劣化国家と嘆くべきなのか。

MacのiTunesをiPodから操作できるRemote。
Time Capsuleの運用状況をMacから確認できるAirMacユーティリティ。
これらネットワークを介してPCを制御するソフトを利用する場合の注意点。
それはファイヤーウォールで制御の例外ソフトに指定すること。
そして、我が家での失敗事例。
Macの「システム環境設定」でファイヤーウォールの例外指定はしたが、ウイルスソフトでのファイヤーウォールの例外指定をしていなかったこと。
分かってしまえば何でもないが、もちっと早く気がついても良さそうなものだった。
やはりRemoteは便利。
そして、複数あるMacのバックアップを一台のTime Capsuleでまかなえるのも便利。
ちなみに、買ったのはAppleの整備品で、acのない。データの転送速度は有線LANの半分とか2/3ほど。時間でいえば、大きなデータを扱うわけではないので20秒が30秒になる感じ。画像とか扱う人にとっては論外だろうが、それ以外の人は無線でいいんじゃないかと思った。
問題があるとすれば、セキュリティかしら。まだ、周囲には見えるようにしている人が多いから、とりあえずは見えないようにしておくだけで大丈夫じゃないかしら。あと、暗号もセットしておけば一安心。半年に一回程度、念のためPWを変えておくくらいかな。

さて、威力業務妨害罪で逮捕された片山被告について。一貫して無罪を主張していた彼が、保釈後に一連の事件についての関与を認めたという。
この事件について、どこか釈然としないものがあり、果たしてそれは何かしらとつらつらと考えていた。なんとも不思議な事件である。
そもそもの発端は、ネット上に残された犯行予告めいた書き込みである。この書き込みによる実害があったことから警察は捜査を開始し、いくつかのえん罪が生まれたことは既に報道された。その後片山被告が捜査線上に浮かび上がり、逮捕・起訴される。
釈然としないことの一つが、片山被告の罪状は、威力業務妨害であるが、この事件に関連したいくつかのえん罪との関わりがどうなるのだろうかということ。これらのえん罪の責任は検察にあるのは当然として、片山被告はその件に関して責任を問えるのだろうか。さてわからん。
えん罪に問われた方々が片山被告を訴えることはできる、と思う。それは、自分のPCに対して「ウイルス」を仕込んだということに関しての訴えだ。それはできる。でも、その被害の範囲として、えん罪に問われた分までを含めることはできないはず、多分。えん罪に関するあれこれは検察を相手にするべきだろう。
では検察はえん罪を発生させた責任を片山被告に問えるのだろうか。えん罪に至るまでの道筋を片山被告が用意した、あるいは検察をそそのかしてえん罪を起こさせた、とし、えん罪を教唆したとして告訴するのは、かなり無理がある、と思われる。そもそも、えん罪は事件の捜査の結果であって、片山被告は捜査権を持っていないのだから、なにをかいわんやだ。でも捜査妨害というのはあるのかもしれない。あるのかな。
そして、もう一つの疑問。片山被告の保釈後の出来事がどうにも釈然としない。
既に報道されているように、片山被告が保釈後に開かれた公判中に真犯人を名乗る者からメールが届く。そのメールが届く前に警察は保釈された片山被告が河川敷に何かを埋めていたことを目撃している。そしてメールが届いたあとで、現場を掘り起こしたところスマートフォンを発見した。
この報道の通りとするならば、警察は片山被告が何かを埋めたのを目撃しただけで、なんの行動も起こさなかったということだ。どうして行動しなかったのだろう。これがもう一つの釈然としないことだ。
片山被告が何を埋めたのか、それがどのような目的を持った行動だったのかが気にならなかったのだろうか。気にならなかったのだろう、たぶん。忙しかったのかもしれない。
そして、その結果、真犯人を名乗る者からのメールが届く。その後掘り起こしたら片山被告のDNAが検出されたスマートフォンが発見される。そして、事件への関与を片山被告が認める。
つまり、片山被告が何を埋めたのかということに関心を向けず、その行動に何かの目的があるとも思っていなかったが故に、メールは送信された、ともいえる。そして、関心を向けていたら、メールが送信されなかった、ともいえる。
斯くしてメールは送信され、その後片山被告のDNAが検出された。
思惑で事を語るのはどうかと思うが、誰かが書いた筋書き通りにことが進んでいるという印象がどうしてもぬぐえないのだが、この一連の出来事をして、片山被告は踊らされた、とは言わない。しかし彼が踊ることを誰も止めなかった、とは言えるかもしれない。そしてメール送信くらいで良かったね、とも言えるだろう。あるいはメール送信くらいだろうという予断はあったのかもしれない、とも言える。あったに違いない、とは言い過ぎとしてもだ。
しかし、そもそもこの事件って、これほどまでに大事になるような事件だったのかしら。自作自演とは言わないが、マッチポンプな印象がどこまでもぬぐえないところが、かなり怖い事件でした。

橋本氏が公示後にツイッターで発言したというニュースを読んだ。
ライブドアの堀江氏のことを思いだした。
時代の波にルールが追いついていないときに、
その波に乗ってしまうか、あるいはルールを守るのかという選択は、
確かに心を悩ませる。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
でも、これは市井の人であるからできることである。
ビートたけしが赤信号を渡れば問題とされる。
警察官が渡っても問題になる。
では、なぜ橋本氏は渡ったのか。
政策的小異を認めず、八策に従うことを強く求めるのに、
赤信号は渡ってしまう、確信犯的なうかつさ。
かように考えれば、橋本市は、革命を目指しているのかも知れない。
政治活動はその一理塚に過ぎず、
屍累々な三里塚をも乗り越えようというのか。
でも、お金が絡むとルールを水面下に沈ませることもできるが、
政治が絡むといったんは沈むものの、すぐに目立つところに浮き上がってくる。
だからこそ、そんな大それたことを考えているのではなく、
単なる票稼ぎだったりするのかも知れない。
とすれば、選管が警告する前に、
そうね明日あたり、スイマセンでした、なんて頭を下げ、
もうしません、反省してますとか言ってそう。
やんちゃ感をアピール!という作戦なのか。
今はまだ石原氏が代表だから極端な反則技はないと思うが、
橋本氏が国政に出てくるとなると、国会運営とか大変そう。
その前に、門戸が閉じてしまうのかもしれないけど。

心を激震させる文章もあるが、軽く震えるだけの文章もあるということ。

2012年の文藝の冬号を買ったら裏表紙に編集手帳の広告が載っていた。
先日も電車の車内広告で見かけ、女性の頰に残された涙の跡を見て、
作為的だなぁと思いつつ本文を読んで、
その力の足りなさ加減にがっかりしたことを思いだした。
ちょっと前に見た、老いた母の写真をバックに綴られた、
親孝行を片思いと重ねた文章は秀逸だと思ったのに、だ。
いやいやこれはもしかして、自分の好き嫌いで判断しているのかもと、
もっと優しい目線で、おおらかな気持ちで裏表紙の広告文を読むものの、
程度の差こそあれ、残念な感じを打ち消すことはできない。
「紅葉の三条件」の中に「人生の悲哀」を見出す視点は期待感を高めるが、
本文に使える文字数を気にしたのだろう、力でねじ伏せる強引さがやな感じ。
今年だったか甲子園で150kmを投げる剛速球投手がいたけど、
結局、チームが点を取れずに敗退したことを思いだした。
せっかく作為的とも思える女性の涙と付き合わせるのだから、
もっとコピーはこの女性に寄り添い、支えなくてはダメだろう。
あるいはこの作為的な写真を忘れさせるくらいに超強引に頑張るか、だ。
ただ、広告としては結構面白いところもある。
それは、いい話を書こうとしている気持ちだけはちゃんと伝わってきて、
そおかげで、なんとかぎりぎり広告として成り立っているのだ。
この、気持ちだけが伝わってくるってところは非常に漫画的でもあるので、
平成世代の広告屋の打ち損じってところでしょうか。
もしですよ、もし、実は昭和の広告屋が、
この漫画的ともSNS的とも、Web2.0的ともいえる手法を
確信犯的に使っているのだとしたら、慣れないことをしましたね。
なんて、好い加減なこといって、えらいスンマセン。。。m(__)m

 日記
 十月一日(木)
相方に指摘されて髪を切りに行く。二月ぶりの床屋だった。そこは理髪師が一人いるだけで、鏡も一枚なら理髪椅子(というのだろうか)も一つ。予約客しかいないからお客も僕一人だけと、あらゆるものが一つの中で人間だけが二人。おかしい。
前回と同じようにと伝え、伸びた分だけ切ってもらう。床屋での会話は前回から今日までの出来事を振り返るばかりで、切られる髪の供養みたい。でもお通夜のような辛気くささがないから良いか。
それで今回の話題は先月行ったロシアの話がメイン。髪を洗っている時でさえなんとか話そうとする自分に気付いて苦笑い。よほど楽しかったんですねと理髪師が笑う。


十月二日(金)
雨ふりの一日。雨の日は靴が濡れるのが問題。よれて履きやすくなったスニーカーほどひどい。
靴はその一生を大きく三つの時代を経て生きる。まず扱いにくさが先行する新品期。その次が足なじみの良い熟練期。この熟練期は意外に短く、すぐにくたくた具合も素敵な衰退期に移っていく。この衰退期は新クタ紀と古クタ紀とに分類でき、とりわけ古クタ紀の靴にとって雨は寿命を縮める原因ともなり得る。くたくたが素敵なのも都市という甘やかされた世界だからであって、雨という現実の前ではなすすべもないのだろう。そして靴は短い一生を雨とともに終える。
熱帯雨林のスニーカーは砂漠の夢を見る。

十月三日(土)
朝から降っていた雨も午後にはあがるが、空には重苦しい雲が一枚。夕暮れ頃になってようやく太陽が顔を見せる。しかし挨拶も早々に、顔を赤らめさようなら。
今日は団子を眺めてススキを味わう中秋の名月。十五夜なのに曇り空。雲の切れ目に月を探すが、待ち人来たらず。ドタドタと音を立ててはくれまいか。カツカツでも可。
観月を前に僕が赤ら顔。
プリンター用紙を二九八円で購入。

十月四日(日)
本日は洗濯日和なり。布団を干して心機一転。今夜は再生布団力に期待。連日の心労。心も天日干しして再生させたい。でも胸から取り出した瞬間、ピューっと風に乗って逃げてしまいそうなのでやめておく。
夕方、相方からお月見のお誘い。十六夜。レジャーシート持参で八時に江古田駅集合。
江古田の森公園の真ん中にシートを敷いて晩ごはん。おにぎりとマッシュルームのピクルス。ビールでお団子。丸い物ばかり。
月が明るくて他の星に遠慮したのか夜空に月がぽつん。
我らも公園の真ん中でちょこん。

十月五日(月)
雨だか曇りだか、もう、はっきりしなさい!
今日は外出。待ち合わせ場所を間違える。新日本橋集合なのに日本橋で待つこと数分。鳴った電話に怒られ平謝り。それにしても便利な時代。
紛らわしい名前は失敗も多いが、楽しい。悩ましいけど素敵。中でも目白と目黒は最強。この組合せで間違える人に悪人はいない。白黒付けるつもりが大混乱。名付けた人のセンスも秀逸。目の付け所も違うね。パリには「九月四日」なんて名前の駅もあるらしい。わくわくする。

十月六日(火)
相方の実家(高知)にいるハムスターはゲージをかじるのが好き、と言うか大好き。起きるなりカリカリ、ごはんのあとでカリカリ、寝る前にもカリカリ。カリカリ。悪い癖だが、ゲージを変えるわけにもいかず、今日もたぶんカリカリ。
そんな「あみたん(ハムスターの名前)」が今朝死んだと伝え聞く。
数日前に前歯が欠けるか抜けるかしてそのまま一気に老け込んだらしい。家族の話では、本人(あみたん)の落ち込みが激しく、終始うつむき加減でしょんぼりがちだったとのこと。そんまで好きだったのね。カリカリが。
彼女《あみたん》の歯はどこにやったのかしら。

 十月七日(水)
台風がやってくる。
ここ十数年。台風のピークが九月十月へとずれているように思う。思うだけですまん。

十月八日(木)
台風の中心は晴れ。豪雨転じて晴れとなす
なんてうそ。前門の虎後門の狼。
見上げた空は不自然に真っ青だけどビルの向こう、遙か遠方には灰色の雲が出番待ち。周囲をぐるりと雨雲に張り巡らされ、牧場の柵みたい。これは悪い晴天。お出かけには適しません。
遠くでは形や模様を変えながら猛スピードで雲が動いている。ぼんやりしていると雲ではなく僕の方が動いているみたい。目が回りそうだ。くらくら。頭痛薬を二粒与える。

十月九日(金)
本日はゼミの発表。自分でわかるだけではダメ。わかる人だけがわかるのでも手ぬるいとは小林秀雄(?)だけど、昔の人は良いこと云うね。まず自分がちゃんとわかっていないと引用さえもままなりませぬ。
発表終了。暑さ寒さも彼岸まで。のど元過ぎれば何とやら。先ほどの覚悟と反省が蜘蛛の子が散るかのごとく消えていった。
昔の人は良く見ているなぁ。

十月十日(土)091010_1446~0001.jpg
相方から雲がドーナツの形をしている写真が届く。僕に羽根があったら、絶対その輪の中を通り抜ける。間違いない。そう思わせる良い雲でした。空が青いのも良かった。夏が終わってしまったことを思い出した。せっかく忘れていたのに。なんてこったい。
お米が無くなったので注文。
 ※写真は僕のじゃないよ。

十月十一日(日)
終始修論のアンケート結果とにらめっこ。
わかったような気になるけど、実際には何もわかっていない。
外は良い天気だったが、薬屋にシッカロールを買いに行っただけ。しかも夕方に。でも洗濯だけはちゃんとした。それで良しとしようと思った。だって、日曜日だもん。

自分でも気が付かないうちに双六に参加して、気が付いたらさいころを振っていた、
なんてコトは良くあることで・・・って、あんまりないか。

ともあれ、サイエンスアゴラ2008という企画があって、
その中でシンポジウムをやることになって、
それに一枚噛んでいるで、告知など。

日時:2008年11月23日(日)10:30~12:00
場所:日本科学未来館 7階イノベーションホール
って、来週じゃん。

シンポジウムのテーマは「科学」。
パネリストとしてお呼びしたのは
・日経サイエンス社の社長
・環境について志のあるオルタナという雑誌を主宰するこれまた社長
・高校生女子をターゲットの科学のわからなさを伝えようとする若きコーディネータ
・毎日新聞社の科学記者
・かつての日経エレクトロニクス編集長で今は大学の先生
という5人。
彼らに日本人の「科学コンプレックス」についてお話してもらいまひょという企画。

とりあえず、チラシのPDFデータを埋め込んだので、よろしければいかが?
チラシはこちらから:表面:pdfデータ 約700KB
チラシはこちらから:裏面:pdfデータ 約550KB

先日、スーパーにビールを買いに行った帰り、というか、スーパーのレジ出たところでレジ袋にビールなどを入れていた時のことである。そこに、ありがとう、おかげさまで○○,○○○円になりました。とかいう報告書?らしきものが。なんというか、リサイクル関係の報告です。牛乳パックとか、トレイとかの廃品回収ね。それはそれで良いんだけど、そこにあったのがこの11%という数字です。
これは何かというと、このスーパーでレジ袋をもらわなかった人の数字です。
私が通っているスーパーも例によって、お買い物袋持参しましょうキャンペーンをやっていて、何となく気になってはいたんだけど、気になるだけ的状態が続く今日この頃だったんですが、11%って凄くない?って話です。十人いたら確実に一人はレジ袋をもらわないってことデスYO!
というわけで、それとなく周りを眺めてみると、祝日の夕方まだ早い時間ですが、お買い物袋持参の人がちらほら、というか、確実にいる。「振り向けばそこにいる」ってな感じ。
ああ、世界は確実にアンチレジ袋に流れているんだと実感したゴールデンウィークの休日でした。
"「しっている」から「している」に"っていうキャンペーンをACがやっていたけど、まさに、「知っている」だけだったんだなぁとちょっと反省する今日このごろだとさ。

080419-01.jpg
新潟は信濃川が日本海に流れ出るところに川の下を横断する海底トンネルがありまして、その名を「新潟みなとトンネル」と申するわけでございます。このトンネルの入り口と出口、どちらが入り口でも出口でも構いませんが、便宜上、日本海を背にして信濃川を見た時に右手にある方を入り口と、左手にある方を出口とさせていただきます。
このトンネルは長さが約3.3kmありまして、トンネル内には車両通行用の道路に合わせ、歩道用の通路も用意されておりまして、散歩道やジョギングコースとして利用されている方も多数いらっしゃるとのこと。それというのも、この歩道用の通路ですが、車両通行用の道路とは完全に独立しており、排気ガスなどが流れ込めない構造になっておるのでございます。ただし川底を通るトンネルですので、当然といえば当然なのですが、太陽光は届かないのでございます。その点だけが悔やまれるのですが、それ以外については結構快適なジョギングコースと思われるわけです。
080419-02.jpg
その新潟みなとトンネルですが、トンネルの両岸にトンネル内の空気を換気するための縦坑がそれぞれ用意されております。そして、その二つの縦坑を利用して新潟港を一望できるタワーが信濃川をはさんで両岸に向かい合うように建てられておりまして、こちらからの景色がなかなか風靡なものでございます。二つのタワーは入り口側が入船みなとタワー、出口側が山の下みなとタワーと名付けられておるのでございます。
写真に映っておりますタクシーは、山の下みなとタワーの駐車場に停められておりまして、車体の横に「初乗り300円」という文字が掲げられておりましたので記念に一枚いただいた次第です。その次の写真も同じ山の下みなとタワーからの光景で、映っているのは、この写真では分かりにくて申し訳ないのでございますが、ロシア向けに車両を運搬する船なのでございます。船前部が大きく口を開けるようにして車を中に取り込む構造になっております。
写真にはありませんが、入船みなとタワーにも出かけまして、そちらのほうが山の下みなとタワーより若干大きく、周辺の緑も多いという印象をうけた次第でございます。そして、入船みなとタワーで特筆すべきは、入船みなとタワーの裏側にあるうどん屋さんでございます。こちらのうどん屋さんですが、「入船うどん」という看板を掲げており、いかにも立ち食い系なのぼりなども用意されており、一見すると「あらあら、ごめんなさい」的なたたずまいでございますが、なかなかどうして、これが美味しいのでございます。ワタクシの私見ですが、「レンゲを付けるうどん屋に良店なし」というものがございまして、それに当てはめるとこちらのお店は残念ながら期待に逸れないものと思っていたのでございましたが、ワタクシの意識を大きく変えた一店でありました。
営業時間は10時からですが、夜には居酒屋になるとのこと。タワーをご見学いただく時間であればおそらく開店していると思いますので、ご予定とご用のない方はちょいとおうどんをいただいてみてはいかがでしょうか。
では、かしこ。

080408.jpg
旧暦の3月3日、つまり、4月8日、すなわち今日は「花散らし」の行事が行われる日。
そして、今年は折しも風雨に見舞われ、文字通りの花散らし。
この木の下にもいるんでしょうか?

という問題がある。
まあ、たいしたことじゃないんだけど、例えばテレビドラマを見て感じたことがあったAさんがいたとして、それを横で見ていたBさんがいて、その人もそのドラマを見て感じたことがあったとした場合、AさんとBさんがドラマの感想を共有できるのだろうか、ということ。
簡単に考えれば、それは「できる」んだろうけど、その共有の方法によっては決定的な違いが生まれるんじゃなかろうかというのがもっぱら今の関心事。
なんだかどうでも良いことを考えているみたいだなぁ。
ともあれ、AさんとBさんの二人がいて、どっちが話を始めるかで共有できる内容が変わってくるんじゃなかろうかという仮説を立ててみる。
つまり、Aさんが話し始めることで、BさんはAさんの感想を聞き、自分の感想を何となくBさんよりに「改変」する可能性はないのかなぁ。そして、その「改変」はBさんが先に話始める場合にも起きうるんだと思う。つまり、僕らは互いの意見を聞きながら自分の意見を調整しているんじゃなかろうかと思うわけで、それはなんなんだ? そして、そのパワーゲームこそが人間関係であるなら、Webのような、あるいは、手紙のような交流は実はパワーゲームの効果が際だって現れる関係であんじゃないの? ってことだ。「良い人」から届いた手紙に「悪いこと」が書かれていたとしても、「良い人」が書いた手紙だから何か意味があるんじゃないかと受け手がその印象を若干「改ざん」することがないとは言えない。少なくとも、「悪い人」から届いた手紙に「悪いこと」が書かれていた場合、受け手は特に配慮をしないと思うのね。
雨の日は余計なことを考えてしまいます。

人が本来備えている能力だけでは不十分で、それを補う、あるいは、能力を強化するために使うという種類の道具がある。
例えば、コンタクトレンズ、手袋、靴、服もそうだ。そして、マスク。
そうなのだ、今問題にすべきはマスクなのだ。
ちっちゃな頃からマスクが嫌いで嫌いで、とにかくマスクはNG!
なんだけど、花粉症になるとそうもいってられない現実があるようでございまして、なんだかいや~んな感じな今日この頃、そろそろ花粉症なのかなぁと、何となく思うような思いたくないような、微妙な時期なのでした。

ついつい根比べを連想してしまって、迂闊にも照れたりするのが「コンクラーベ」ですね。正しくは、新たに法王を互選するために密室で行われる会議のことで、根比べとは似て非なるのですが、類遠からじなのがこれまたやっかいなところ。

ダイバシティ(diversity)とかケーパビリティ(capability)とか、なんでカタカナ語にするかなって話。
前者は多様性とかいろいろといった意味で、後者は能力とか才能という意味。決してお台場やケータリングとは関係ないのでご注意。でも、こういったカタカナ言葉を使う人々の不思議は、そんな勘違いをする人になんだか冷たいなぁということ。そこにはホスピタリティが感じられないよ。それなら、シータク呼んでブクラでルーオ、とかいう業界クンのひっくり返し言葉の方が罪がないし楽しいよ。ダイバシティとか言っておきながら、それを理解できない、あるいは、勘違いする人を笑うのは、多様性を語る上でどうかと思うけどね。知らない人もいれば、勘違いする人もいるという、人の認知的な多様性をダイバシティという言葉が伝わるか伝わらないかという二者択一なマークシート的判断のもとでまとめて目方でドン!てなもんや佐渡おけさ。ちゃんちゃらおけさ
「多様性」の概念を知らない人を笑うのは、まあ良い。しかし、単に「ダイバシティ=多様性」という関連性が成り立っていないところだけを捕まえて笑う矮小なところが嫌だ。それはルールでできません、とかいう小役人根性が許せねぇ。
ちなみに、ホスピタリティとは、もてなしとか、歓待の意味で、病院とは違うんだよね。もっとも、語源的には一緒で、主人が客人をもてなす場というのが原義。

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうちclaimカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリはbooksです。

次のカテゴリはfoodsです。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。