再読「羊をめぐる冒険」

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デビュー三作目の本作。「英語になったニッポン小説」(1996年)の中で著者である青山南は、プリンストン在住時の村上春樹に対するインタビュー記事を引用し、村上春樹にとって処女作と第二作は(つまり「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」のことであるが)村上のなかでは「忘れてしまいたい」ものになっていると語る。そうした経緯もあり、アメリカにおける村上春樹のデビュー作は「羊をめぐる冒険」となっている、らしい。ちなみに、青山氏は「羊を」の英訳版はオリジナルの日本語版とは翻訳という技法を使うことで意識的に変えているとも指摘している。その1つとして氏が指摘するのが章タイトルの違いだ。例えば日本語版では、第一章が「1970/11/25」、第二章が「1978/7月」、第三章が「1978/9月」となっているのだが、それが英訳では第一章が「Prologue」、第二章は「July, Eight Years Later」、第三章が「September, Two Months Later」となっていると指摘する。そう、年号が消えているのだ。しかも年号の削除はタイトルだけに留まらない。文中の西暦表示もすべて消し去られているという。そしてこの違いにいて、翻訳時のいわゆる言い換えではなく、意図を持って行われた作業であって、それは翻訳を超えた何かだとも指摘している。


うーん、なるほど、と思う。ちなみに、1970/11/25とは何かと言えば、「羊を」において、「僕」にとっては「誰とでも寝ちゃう女の子」と初めて寝てしまう日であり、日本にとっては、テレビのニュースになるという程度には注目に値する関心事であって、それは三島由紀夫が切腹自殺した日である。
さて、「羊を」の初出時のことを思いだそう。それは1982年。昭和57年。この当時、日本の読者が1970/11/25という日付から何を想像しただろうか。日本が好景気に沸き、誰もが未来について夢膨らませていた時、1970年の11月? ああ、三島のことね、と想像できた人がどれだけいたのだろうか。それはかなりの少数派だと思う。その後の本文で三島の事にふれている文章を本作中で読んで、ああそうかと思う人はいたかもしれないが、それとて章タイトルと関連づけ、1970/11/25というタイトルの意味を三島が自殺した日と読み取る人はかなりまれだろう。何を言いたいのかと言えば、初出の1982年当時の日本の読者にとっては1970/11/25という日付は単なる記号に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもないということだ。深読みしたい人はすれば良いし、そのことを無駄な作業とは言わないが、それとて暗喩として機能しているのであって、わかりやすい伏線では、たぶん、ない。大事なことはその日に起きた出来事として「僕」の記憶に残っていることはテレビに映る三島の姿を見たということであるということだけだろう。もっと言えば、別に三島でなくても良かったのだ。1970年の11月25日の出来事にこだわるならスリナムがオランダから独立したというニュースでも良かったし、もっと個人的なこと、例えば、朝方に雨が降っていて、靴が濡れて気落ち悪かったといった事でもよかったのだろう。国内向けのメッセージとしてはこれで十分だ。三島を扱うことでちょっとセンセーショナルになるが、そのことに過剰に反応するほど当時の日本の読者は三島のことを覚えてはいない。しかし、アメリカではどうだろうか。1980年代、アメリカにおける日本文学は、川端であり、谷崎であり、そして三島だった。実は1991年にニューヨークの書店に立った事があるが、日本文学のコーナーに並ぶのはやはり川端であり、谷崎であり三島だった。私にとっては古典であった古くさい文学がニューヨークでは近代日本文学だったのだ。つまり英訳における改定はこうした先入観を消したかったんだろうと私は思う。さらに青山氏は指摘する。村上は英訳時に改訂することによって「羊を」を寓話として作り直そうとしたと。そのスタンスは私も賛同できる。ただ私が思うのは、寓話として作り直そうとしたというよりはつまり、日本において、「羊を」は既に寓話として存在していたのではないかということだ。日本において寓話として存在している原著を翻訳後も寓話として存在させるために日付を消したのだ。物事の本質を捉えようという村上のスタンスがそうさせたのではないかと、私は疑っている。あるいは翻訳家としての村上が、でも良いだろう。「右手に載せたコインをぱたんと左手にかぶせ、右手を上げるとコインが裏返っている」これは1973年のピンボールで翻訳について語られた一節だ。コインの表と裏は全く違うがそれでもコインはコインだ。
ちなみに、「羊を」のロシア語版ではちゃんと西暦表示になっているのだが、これはどうしてだろうか。はて? なお、1990年のロシアは知らないが、2010年のロシアでの日本文学は案外近代化されていて、村上龍とかよしもとばなななどもちゃんと書店に並んでいる。
さて、本題に入ろう。前置きが長いのは私の悪い癖であるが、まあ、それはそれでいい。そもそも、こんな偏狭な文章を誰が読むというのだ。ともあれ、「羊を」は寓話である、というのが私のスタンスだ。寓話とは何かというと、広辞苑によれば「教訓あるいは諷刺を含めたたとえ話。動物などを擬人化したものが多い。イソップ寓話」となっている。
「羊を」のどこか寓話なんだ。何が擬人化されているんだ、という問いが聞こえて来るようだ。まずその問いから答えようと思う。
「羊を」で擬人化されているのは何か。それはスタイルではないかと疑っている。生き方とかポリシーとかに言い換えてもよい。あるスタイルを持ち、例外を認めない、あるいは例外を可能な限り排除しようとすることを何よりも優先する姿勢を擬人化しているのだ。そしてそれが「僕」だ。
その「僕」のスタイルとはどんなスタイルなのか。それについては耳の彼女が伝えているのでここでは言わない。多分彼女が言うことで間違いないだろうし、擬人化されているスタイルについて細部を言及することはこの文章の本意ではない。まずは森を見ようと思う。木々についてはそれは凡庸であることだ。そして平凡であること。突出しないこと、埋もれることをよしとすること。そんなところだろう。
それ故「僕」はいろいろなことを諦める。自分が自分のスタイルを押し通すのだから社会や世間との軋轢を自分が我慢するのは致し方ないというスタンスだ。
なるほど確かに間違っていないし、ある意味立派でもある。もし問題があるとすれば、「僕」は自分が諦めさえすれば他人に迷惑をかけることはないと思っているところだ。嫌な人は「僕」の前から去れば良いというスタンスだが、他者の立場からみたそれは、世界に対して「僕」のスタイルを許容することを求めて、いや、押し付けているとも取れるだろう。
この自らの諦めが他者に共用を強いるという状態について、「羊を」の「僕」は元妻との離婚の原因に言及するところで社会不適合者は僕の方だったと語る程度には自覚的である。誰もが幸せになる方法がある中で、「僕」の方法は誰も幸せになれない方法であると気付いた。あるいは気付いていた。
そして耳のモデルの彼女が「僕」のことを素敵というのはこの文脈において理解できる。耳のモデルは人を理解しようとするとき、その人が語る自己紹介の反対側から眺めようとするといっている。つまり、「僕」と関わる誰もが幸せにならない生き方をしているという僕が目指す生き方とは、耳のモデルからみれば、本当はすべての人を幸せにしようという生き方をしたいのだが、それができないから今の状況に甘んじている(あるいは意図的に現状を選んでいる)と見えるからだ。
当然のことながら、この「僕」のスタンスは他人への無関心として現れるし、他人からは無関心な人と捉えられる。それは別れた妻に対してさえ、というか元妻に対して顕著に表れる。浮気した彼女に対し、それは結局君自身の問題だと突き放す。
しかし、僕が突き放さない相手が「羊を」の中に登場する。それが黒服の男だ。「僕」は黒服の男に対しては常に敵対的な姿勢を崩さない。関心の対象としての黒服がいるのだ。それはなぜか。それは鼠が絡んでいるからだ。言い換えれば「僕」にとっての例外があるとすえば、それは鼠だということだ。
では、この寓話が与える教訓とは何かと言えば、自身のスタイルを追求するのであれば、すべての例外を排除しなくてはならないということか。鼠とて例外ではない。いや鼠こそ、重要な存在である鼠こそまず最初に排除しなくてはならない。そして、「僕」は鼠と対峙する。
こうして「羊を」は終わる。終わるのだが、例外を完全に排除することで概念的なスタイルを現実世界で実現できるのだろうかという疑問のような、疑いが後味の悪さとして残る。やがてまた「僕」の前に鼠に変わる例外が現れないとも限らないからだ。可能性。未来。予測不能ななにか。結局、教訓として残るのは可能性を排除することはできないということだったのだろうか。
そしてその後味の悪さを解消するために書かれたのが「ダンス、ダンス、ダンス」ではないのか。失って困るモノなどなにもないと豪語した「僕」は、果たしてヨシズミさんに出会ってしまう。そして「僕」は、「僕」を取り戻すために「僕」という擬人化された概念を言語化することで概念に戻すという作業を行うことになるのだが、それはまた別のところで語ろうと思う。
村上春樹三部作の感想でした。30年くらい読み続けてきたのですが、まあ、こんなところに落ち着いたようです。

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このページは、k-wataが2012年7月 2日 22:38に書いたブログ記事です。

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