『英国王のスピーチ』からセカイ系まで

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この映画がアカデミー賞を取ったことに対してどこぞのFMのナビゲーターが「アメリカ人は王室とか皇族とかにコンプレックスがあるからですかね」とコメントしていたのを思い出した。そんなことでアカデミー賞が取れるなら「ゆきゆきて神軍」にもアカデミー賞を! とか思う今日この頃、「英国王のスピーチ」をご覧になったみなさま、いかがでしたか。
見始めて数分の後、この物語は吃音症を持った者を描いていることに気付き、何とも微妙な感じがした。知っている人は知っているので、別に秘密でも何でもないのだけど、私自身も吃音症を抱えている。他の人はどうだか知らないが、私にとって吃音症は禁煙と同じだ。今はたばこを吸っていない人でも、その人が過去に一度でもたばこを吸った経験があれば、その人は禁煙中ということになる。ひとたび禁煙者になった者は常に禁煙者であり続けるのだ。この呪縛から逃れる方法は今のところない。吃音症も同じ。ひとたび吃音症であることを自覚した者は未来永劫、常に吃音症であり続ける。なんていうと深刻さが増すけど、実は(というか、今は)、それほどたいしたことでもない。喫煙者も喫煙状態が長く続くとそのことを忘れるように、吃音症も長いこと吃音症が出ていないとそのことを忘れてしまうのだ。

さて、「英国王のスピーチ」に話を戻そう。吃音症に悩む主人公を描くこの映画だが、彼の苦悩の本質は周囲の期待に応えられない自分のふがいなさの中にある。これをテーマに物語を編むのであれば特に吃音症にこだわることはないのだが、今まで吃音症をモチーフにこのテーマを語った物語もなかった(あっても売れなかった?)ということだろう。
吃音症は実はそんなに特殊な症例ではない。専門家からは違うと異論が出るかも知れないが、私の個人的な感覚では通過儀礼的なもので、誰にでも起きうる症例じゃないかと疑っている。つまりはちょっとした言い間違いや言いよどみをどう受け止めるかの問題だと思う。そしてそうした言いよどみが吃音症へと発展していくのは本人の受け止め方と周囲の受け止め方のズレみたいなものが大きく関係してくる、と思う。原因の一つとしてあるのが、本人は重大事に思っているのに対して周囲が軽く受け流すというような状況であったり、あるいはその逆。本人は特に何とも思っていないのに周囲がはやし立てたり心配するような状況だ。そうした状況に置かれてしまうことで吃音症が定着するんじゃないかと、勝手に思っている。別に吃音症に限らず似たようなことは起きる。逆上がりに失敗したとき、その失敗をはやし立てられて逆上がりができなくなるとか、良くある事だ。ちょっとだけ吃音症と違うことがあるとすれば、逆上がりは鉄棒がなければそれを披露する機会をえられないが、吃音症を披露する機会は案外多い。
「英国王のスピーチ」では自己評価と周囲からの評価のズレに悩む人が多く登場する。主人公ジョージ6世はもちろん、彼の吃音症と向き合う言語聴覚士のライオネルもまたその一人だ。演技力に自信を持つ役者志望の彼はオーディションを受け続けるものの、評価されないまま年を経てしまっていることを嘆く。ジョージ6世の吃音症をからかう兄デイヴィッドとて例外ではない。デイヴィッドに向けられる悪いアメリカ女シンプソン夫人におぼれているという対外的な評価は、シンプソンへの愛を貫くデイヴィッドにとって苦痛以外のなにものでもない。
この映画が語るのは、まさにこの自己評価と対外的評価のズレに立ち向かう本人の姿勢であり、また本人の自己評価を肯定的に受け止める周囲の人々の存在であろう。国王の器ではないと考えるジョージ6世は国王の椅子に座らねばならない現実を受け止め、ジョージ6世の家族やライオネルはジョージ6世の苦悩に共感し、彼とともに克服の過程を歩もうとする。
ただ、ただね、こうしたチームプレーは確かに共感を生むけど、吃音症患者が抱える不安にそんなに多くの人が共感できるのかな? という疑問が生まれていたのだ。物語の途中からむくむくと。当然といえば当然の疑問。だって、たかが「どもり」よ。スピーチで詰まるというのであれば、事前に録音した音声を流して国王様には口ぱくで対応しましょう、と進言する側近がいなかったのかしらん、と、そんなことを思いながら映画を見ていると、なるほどそう来るかという展開が用意されていた。うーむ、さすがはアカデミー賞。侮れない。
その展開というのがライオネルの過去にまつわる逸話だ。吃音症の治療に取り組む彼だが、実は英国でのドクターの資格を持っていない。彼の療法は彼が独学で得たもので、その手法は世界の最先端を自負する英国の専門家からすれば非科学的手法であって、異端であったに違いない。それ故、批判の対象ともなる。おそらく、ジョージ6世の吃音症を担当しているというやっかみもあったにちがいない。そんなおり、ライオネルに対する中傷をジョージ6世に吹き込み、その中傷を信じることで自身の吃音症が改善しない理由にしたいジョージ6世がライオネルをなじるシーンがいくつかの伏線とともに現れる。このシーンから確実に物語が流れだしていく。
なんてことはない、表向きは吃音症を克服したジョージ6世の物語であるものの、実は孤軍奮闘して独学で治療法を確立してきたライオネルの物語だったのだ。この関係を「英国王」をモチーフに描くところにこの物語の妙がある。
英国での国王は日本の天皇と同じく実質的には英国議会の決定を代弁するだけであり、国王に何ら決定権はない。つまり、国王とは看板である。そしてその役割は、国民に対して、ろくでなしどもが集まった議会が決定したことではあるけど、それでも「あの」国王が承認したのだからあながち間違いでもないのかもな、と思わせることにある。もはや覆らない決定を、あたかもそれが最良の策であると思わせるために国王は存在する。看板はいにしえの昔からかんぺきであるし、これからも完璧であり続ける。そして、完璧でない看板は存在できない。ジョージ6世の兄はその任を担えるほどには完璧ではなかった。それ故に彼は国王の座から退く。
先をゆく者には先をゆく者にしかわからぬ不安があるように、後を継ぐ者には後を継ぐ者なりの苦悩がある。国民が国王に求めるもの、それは「完璧」以外のなにものでもない。そこにあるのは努力して勝ち得た完璧ではなく、実際はともかく建前としては、はじめから完璧であることだ。国王に向けられる国民の期待はそれに尽きる。おそらく、この映画の時代はそうだったはずだ。それ故、本来的にはライオネルは存在してはならない。ライオネルを必要とするような国王ではあってはならないという意味において、ライオネルは存在してはならない。しかし、現実のジョージ6世は完璧であるためにライオネルを必要とした。ライオネル以外にあり得ないとさえ思っていた。そしてライオネルもまたジョージ6世を必要としていた。ライオネルが治療者たり得るのは患者がいてこそだからだろう。でも、別に、問題を解決する方法は困難な一つの方法しかない、なんてことはないはず。ジョージ6世はライオネルだけに頼る以外の方法だってあったはずだし、ライオネルだって、ジョージ6世だけが患者というわけでもないだろう。しかし物語は第二次世界大戦に対峙しなくてはならない英国民に勇気を届けるという大問題をジョージ6世とライオネルの二人に背負わせることにすることでラストシーンに突き進む。
えーと何をいいたいのかというと、つまり、あれだ、英国王のスピーチって、なんてーか「セカイ系」だったんだね、ということでした。
いわゆるひとつの「きみとぼく」の物語。
なんかすっきりしました。

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このページは、k-wataが2012年2月20日 22:29に書いたブログ記事です。

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