再読「風の歌を聴け」

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「風の歌を聴け」ほどではないが、ありふれたつまらない小説は少なくない。
いきなりだが、「風の」は、戦争にいったおじいちゃんの思い出話のような壮絶な感じもなければ、近所のおばちゃんの若い頃はモテモテだったのよといった浮かれた感じもない。別に、人の死や色恋がなければ物語ではないとまでは言うつもりはないが、それにしても「風の」にはそうした『サービス』がないように見受けられるのだ。一見すると、ではあるが。
さて、「風の」がつまらないのにはいくつかの理由がある。それは登場人物のすべてが人の良さを売りにしていることと無関係ではない。しかも単なる「いいひと」ではないところがこの物語のめんどくさいところだ。人の良さを売りにする人は、優しくて、物事の成り行きを先回りしてよかれと思ってたわいもない嘘をつく。より深刻な状況にならないように嘘をつく。さらにそういう状況にならないように用意周到に準備する。
さらには、状況に合わせて、あたかもそう考えていたかのように話をつくる。自分の話を他人の話として話す。重要なことを隠すためにセンセーショナルな話題を取り上げ煙に巻く。曖昧な話題は状況を設定してその中で嘘をつく。とにかく、誰も彼も本当のことを言わない。
しかも、誰も彼もが譲歩というモノをしない。素直になれない。電車のボックス席にたまたま乗り合わせた二人が膝をつき合わせないようにはす向かいに座り、お互いが正面の空いている席の背もたれを見つめているような状態のとき、二人はお互いの右側の(あるいは左側の)表情を読み取ることはできるが、その反対側の表情を見ることはできない。もし、相手に興味があって、反対側の表情を見たいと思ったときにはお互いの目線が会うように顔の向きを変えるか、あるいは膝をつき合わせるように正面に座り直すかしかない。だが、お互いに反対側の表情を知りたいと思っているにも関わらず無関心を装いたいのか、自分から立ち位置を変えようという気はさらさらなく、ただただ見えている側の表情を頼りに隠された側の表情を想像しようとしているような感じだ。
もどかしさは時に興味を喚起させ、想像力を呼び覚ますが、伏線ばかりでその回収がなされない状況が続くと多くの場合単調でつまらないだけの印象しか残さない。しかもその伏線がわかりにくいのだから始末が悪い。伏線を張るだけ張って回収しないのであれば、伏線は誰にでもわかりやすく、センセーショナルな伏線を用意すべきだろう。エヴァのように。
話が脱線しそうだ。
というわけでこの物語を簡単にまとめると、大学の夏休みを利用て帰省した「僕」が、高校時代の友達「鼠」とよく通った「ジェイズ・バー」で女の子と出会い、そして別れるまでを描いている。あらすじを述べるとこんな簡単にまとまってしまう。シンプルな物語。
しかし、コインに裏と表があるように、「風の」のにも裏のあらすじがある、とされている。ハルキストやアンチ鼠同盟、やれやれ解放戦線、村上春樹原理主義などの皆さんが繰り広げ続けて来たそれは、夏休みに帰省した「僕」は、高校時代の友達の鼠が悩んでいることに気付き、そして、彼の悩みの種でもあるだろう一人の女の子と出会い、そして鼠が抱えている問題の解決を手助けしようとするがうまくいかず、鼠と彼女の関わりはもちろん、僕と鼠の関わりさえぎこちなくなりながら夏が過ぎていく。というものだ。
この裏の物語には、もちろん論客によって諸説さまざまな派生系があるが、その基本形があるとすれば、登場する「僕」と鼠と女の子の3人は互いに何も知らない仲ではないだろうというものだ。
その基本形をベースに、私が好きな「風の」の裏の物語はこういう読み方だ。
「僕」は鼠と交流のある小指のない女の子と知り合うが、その子は「僕」が帰省している短い間に町を出ていってしまう。そして、その女の子を追うように彼女の双子の妹(あるいは、姉)が町にやってきたのだが、今度は「僕」が東京に帰らねばならない。そして冬に帰省したときには彼女もこの町を去った後だった。
とりわけ、小指のない女の子が町から消えるの理由として、単に町を出るのではなく、病気か何かで死んでしまったのではないかという思いを消せない時がある。「僕」が嘘をつくのは、そうした事実に直面したくない時だろう。「僕」が嘘をつく限り、「僕」の中で小指のない女の子は生き続ける。
そんなわけで、この物語には、自分が抱えている問題を他人の話に置き換えないと人に伝えられない、あるいは、そうする事でしか人と話ができない人ばかりが登場する。
まあ、やたらとめんどくさい物語だ。

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このページは、k-wataが2012年6月 1日 15:32に書いたブログ記事です。

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