k-wata: 2008年2月アーカイブ

ダイバシティ(diversity)とかケーパビリティ(capability)とか、なんでカタカナ語にするかなって話。
前者は多様性とかいろいろといった意味で、後者は能力とか才能という意味。決してお台場やケータリングとは関係ないのでご注意。でも、こういったカタカナ言葉を使う人々の不思議は、そんな勘違いをする人になんだか冷たいなぁということ。そこにはホスピタリティが感じられないよ。それなら、シータク呼んでブクラでルーオ、とかいう業界クンのひっくり返し言葉の方が罪がないし楽しいよ。ダイバシティとか言っておきながら、それを理解できない、あるいは、勘違いする人を笑うのは、多様性を語る上でどうかと思うけどね。知らない人もいれば、勘違いする人もいるという、人の認知的な多様性をダイバシティという言葉が伝わるか伝わらないかという二者択一なマークシート的判断のもとでまとめて目方でドン!てなもんや佐渡おけさ。ちゃんちゃらおけさ
「多様性」の概念を知らない人を笑うのは、まあ良い。しかし、単に「ダイバシティ=多様性」という関連性が成り立っていないところだけを捕まえて笑う矮小なところが嫌だ。それはルールでできません、とかいう小役人根性が許せねぇ。
ちなみに、ホスピタリティとは、もてなしとか、歓待の意味で、病院とは違うんだよね。もっとも、語源的には一緒で、主人が客人をもてなす場というのが原義。

近所の浜辺で、あるいはリゾート地の砂浜を散歩する時、波打ち際に打ち上げられた貝殻や、外国語の書かれた漂着物などを拾いあげ、しげしげと眺める・・・。誰もが一度は経験したことと思いますが、この遊びのことを最近では「ビーチコーミング」と呼び、カメラや採集袋を手にした多くの愛好者が朝の浜辺を散策しているそうです。浜辺に漂着するそれらを眺め、いったいどこからやってきて、どんな経緯でここにいるのか?そんなことを想像するだけでも、確かにワクワクしてきますよね。

取り上げる理由など特になく、ましてや義理も恩義も何もないのだが、しかし、さりとて気になる話というものがありまして、それがこれ。まんがだよ。まんが。
物語については、あちこちのページが紹介しているので、そっちを。っていうか、紹介するほどでもないんだよね。実際のところ。
この物語のメインテーマは、かつて邦画の最高峰と言わしめた「クレヨンしんちゃん モーレツおとな帝国の逆襲」と同じ方向にある。(「クレヨンしんちゃん」を未見の方には説明がいると思うが、この子ども向けアニメはノスタルジーの甘美さの受容とそれに対する警告という構造を持って描かれているが、この映画の何が面白いのかについてはここでは述べない。)つまり、メインテーマはノスタルジーだ。しかしながら、本作の描くノスタルジーのスケールは矮小化され、局地的でさえある。まあ、だからこそ価値が生まれるのだが。分かる人には分かるという言い方は好きではないが、まさにその感覚に陥るのがこのマンガだ。
「彼らのようになりたい」とは思わないが、彼らの今後がどうなるかは気になる。
今、2巻まで出ているが、作者が遅筆なのか、編集の狙いがあるのかは分かりませぬが、不定期連載なので、3巻がいつ出るかは定かではありませぬ。

というわけで、何の説明にもなってねーなー。

というわけで、なにが「というわけ」なんだか知らないけど、それはそれとして、今日の話題はみかんは小さい方が美味しいか、大きな方が美味しいか?ということ。
断然、小さい方が美味しい派な私であるが、意外にこれが少数派であることに気付いた。
スーパーに出向いても、八百屋を冷やかしても小さなみかんがないのだ。果たしてこでは高田馬場に限った現象なのか、それとも全国規模での現象なのか定かではない。ともあれ、小さなみかんがどこにもないという現実だけが私の目の前に突きつけられている。それ以上でもなければ、それ以下でもない。例えそれが高田馬場に限った現象であったとしても、私にとっての不幸であるところの小さなみかんがないという現実が好転するわけではない。
というわけで、問題は今日のみかんであった。

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