個人の思いは、果たして他人と共有できるのか

| | コメント(0) | トラックバック(0)

という問題がある。
まあ、たいしたことじゃないんだけど、例えばテレビドラマを見て感じたことがあったAさんがいたとして、それを横で見ていたBさんがいて、その人もそのドラマを見て感じたことがあったとした場合、AさんとBさんがドラマの感想を共有できるのだろうか、ということ。
簡単に考えれば、それは「できる」んだろうけど、その共有の方法によっては決定的な違いが生まれるんじゃなかろうかというのがもっぱら今の関心事。
なんだかどうでも良いことを考えているみたいだなぁ。
ともあれ、AさんとBさんの二人がいて、どっちが話を始めるかで共有できる内容が変わってくるんじゃなかろうかという仮説を立ててみる。
つまり、Aさんが話し始めることで、BさんはAさんの感想を聞き、自分の感想を何となくBさんよりに「改変」する可能性はないのかなぁ。そして、その「改変」はBさんが先に話始める場合にも起きうるんだと思う。つまり、僕らは互いの意見を聞きながら自分の意見を調整しているんじゃなかろうかと思うわけで、それはなんなんだ? そして、そのパワーゲームこそが人間関係であるなら、Webのような、あるいは、手紙のような交流は実はパワーゲームの効果が際だって現れる関係であんじゃないの? ってことだ。「良い人」から届いた手紙に「悪いこと」が書かれていたとしても、「良い人」が書いた手紙だから何か意味があるんじゃないかと受け手がその印象を若干「改ざん」することがないとは言えない。少なくとも、「悪い人」から届いた手紙に「悪いこと」が書かれていた場合、受け手は特に配慮をしないと思うのね。
雨の日は余計なことを考えてしまいます。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 個人の思いは、果たして他人と共有できるのか

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://something.under.jp/picnic/mt-tb.cgi/12

コメントする

このブログ記事について

このページは、k-wataが2008年4月 7日 14:33に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「花粉症とマスク」です。

次のブログ記事は「花散らしの雨」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。